『愛花』
篠山崇は、長年追っていた大物代議士の尻尾を捉まえた。
地方(つまり、此処だ)に住む愛人から、情報を取ることに成功したのだ。これには足掛け九年もの年月を費やした。小学校四年生だった愛花は高校を卒業する歳になっていた。
そして崇は、記者としての成功を手に入れたのである。
「引っ越すの?」
卒業を一月後に控えた、二月後半。
崇は本社への移動が内示されたことを、愛花に告げた。
「あゝ。その為に此処へ来た。記者として、本社へ戻るための九年だったからな」
コタツの上に置かれた、湯飲みを取る。愛花も同じように湯飲みを持っていた。中は、すっかり冷めたお茶だ。
でも二人とも、飲むでもなく、入れ直すでもなく、手にした湯飲みをもてあそんでいた。
「分かった。それで、いつ引っ越すの?」
愛花は、そう云った。
本当に、それでいいのだろうか。
自分の意思を殆ど云わない愛花の本心は、どこにあるのだろうか。
崇の顔に、不安がよぎる。
愛花は、どうするのだろう。
「愛花」
「ん?」
「一緒に、行くよな」
それを聞いた時の愛花の表情ほど、驚いたものはなかっただろう。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「進学しないってことは、俺の元から離れるってことかと思ってたから」
莫迦みたい、と小さく呟く愛花の言葉は、崇には聞こえなかった。
「一緒に行く。今年は受験しなかったけど、来年は、するよ」
どういう意味なのか、崇が愛花の気持ちを図りかねていると、けらけらと笑い出した。愛花が、こんな風に声を上げて笑うのは珍しい。
「一年勉強して、法科へ行く。弁護士になりたいから」
そう、はっきりと云い切った愛花の顔は、崇が初めて見るほどに自信に満ちたものだった。
「弁護士…」
「うん」
「そうか…、弁護士か。愛花、頑張れよ」
「うん」
愛花の答えは簡潔だった。
「今からでも受けてみたら、どうだ?」
誰もが思う一言を、崇は愛花に聞いてみる。すると愛花は首を横に振り、
「今の私の実力じゃ、もし受かったとしても入っただけで落ち零れる。余裕がなければ付いていけないから。だから一年待つ」
「それでいいのか?」
「パパが許してくれるなら」
「当たり前だろ。何年浪人しても、頑張れよ」
崇の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
弁護士。それは若き日、崇自身が夢見た職業であった。
春。
栄転という付属がついて崇は本社へと移動し、これに伴い二人は都内へと引越した。長年暮らした町だというのに、そのことを聞かされたのは後輩の真野晋司と、愛花の通った高校の校長のみだった。