『愛花』

その3 篠山崇の不安

 今頃、電車に乗っているだろうか…
 愛花は、帰ってくるだろうか…

 篠山崇(ささやま しゅう)は、張り込み先の植え込みに隠れ、腕時計を覗く。
 愛花が、担任だった教師を見送りに行く、と言い出したのは昨夜の深夜。連絡網で、教師の出立が年明けの三日に決まったと廻ってきたのは、クリスマスの夜だった。
 行ってきてもいいか、ではなく、行くと断定されたことで、自分の返事は要らないのだと感じた。
 そして、単に駅へ見送りに行くのではなく、教師を追って電車に乗り込む心算だと分かった。何を言っても行くだろうと思った。ならば、自分の小遣いの範囲でなら、と許した。
 この一週間、ろくに話せていなかった。
 何故、行くことにしたのか。何も聞いてやることができなかった。

 仕事も今が正念場を迎えている。殆ど帰宅はできなかった。たまに帰れたとしても、深夜の午前様だ。
 携帯を持たない愛花とは、卓袱台にある一冊のノートだけが二人を繋ぐ言葉のやりとりだった。

 しかし愛花は、何も書いてはいなかった。
 だからこそ。行くことはないと、思い込んでいた。
 何を考えていたのだろうか。何か、悩みがあったのだろうか。教師になら話せる何かが、あったのか。
 まぁ、今更言っても遅いのだが…

「篠山さん、動きます」
 一緒に張り込んでいる真野晋司の声に、はっと反応した。
「行くぞ」
 植え込みを飛び出し、離れた所に停めてある車まで走る。

 これまでも、話をしない一ヶ月なんてのは、ザラだった。
 それなのに今回、何故、こんな不安になるんだ。愛花は離れたりなんかしない。絶対、帰ってくる。篠山の気持ちに動揺が広がってゆく。
 これじゃ仕事にならない。

 篠山は、愛花のことを頭の中から追い払った。
 この数時間後、教師であった大崎からの電話を受けることになろうとは、この時の崇は知るよしもなかった。

著作:紫草

inserted by FC2 system