『愛花』

その6 ふたりきりの家族

 玄関に揃えてあった靴を見て、愛花は父・篠山崇の在宅を知った。
 いつもは、こんな時間…夕方の五時などに家にいる人ではない。

 偶然、立ち寄ったのだろうか。
 何の手土産もなく帰ってきたことを、少しだけ後悔した。
 しかし電車賃ですら大崎に借りたのだ。土産を買う余裕など愛花には、なかった。

 戸建てとはいえ、小さな家である。入ってすぐに一つ、奥に、もう一つ。二部屋だけの家だった。手前の部屋には、キッチンとは名ばかりのガス台がある。崇は、そこに立っていた。

「ただいま」
 小さな家だ。愛花の帰宅は、とうに知っている筈なのに、つい声をかけてしまった。もう何年も、自分の帰宅を崇が迎えるなどということはなかったため、どこか、ぎこちなかった。
「おかえり」
 コンロから目を離さず答える崇。
 きっと崇も、いつもと違う空気を感じとっていたのだろう。
「何作ってるの?」
「おでん」
 久し振りの、崇の手料理である。
 だが愛花は崇から、お玉を受け取ると台所に立った。
「今日は、もう出かけないの」
 再び、その目を見ることなく愛花が尋ねた。
 崇は台所の仕事を放棄して部屋へと移動し、どっかと座り込む。
「あゝ。今日は、もう上がりだ」
 そう言いつつも、その手はパソコンの電源を入れるため、早くもコンセントを探してた。
 背後に感じる崇の気配。愛花は思わず泣きそうになっていることに気付いた。

 二人は、その後早めの夕食を取り、入浴し、愛花が先に奥の部屋へと入る。二人分の布団を敷きながら、愛花の視線は虚ろだった。

 何かを聞く心算ではなかったのか。
 この四日にあったことを根掘り葉掘り、いろいろと…。
 その為に、いつもにはない時間に帰ってきたのではなかったのか。
 愛花は何も聞かれない苛立ちを、どうすることもできず、自分の感情を持て余していた。

 そして崇もまた、この四日間にあったことを聞いた方がいいのか、悪いのか。思案にくれていたのだった──。
 何を聞けばいい。
 愛花は、もう子供じゃない。

 あの教師、大崎といったか。自分より少し年下の線の細い男。教師というよりは、色白の学者肌を思わせる男。並ぶと、愛花と殆ど変わらない小柄な男。その男の元へ送り出したのは、自分自身だ。

 新聞記者などするものじゃないな。
 気持ちが、暴走するのを喰い止めている。それがいい事なのか、どうなのか。崇には判断がつかなかった。

 深夜。
 パソコンの電源を落とし、奥の部屋へと移動する。そこにある四日ぶりの、愛花の敷いた布団。
 隣には、小さな寝息を立てている愛花の姿がある。その寝顔を見つめながら、漸く戻ってきた日常に安堵を覚えるのだった。

 漸く帰ってきた、愛花。
 こんなに離れていたのは、初めてだった。
 愛花は、そのことに気付いているのだろうか──。

著作:紫草

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