『あきら]』

――元気?! 冬子さん。

 受話器を通して聞こえてきた声。
 それは待って待って待ち望んで、でも二度とかかってくることのなかった俊の、あの時と全く変わらぬ彼の声のように聞こえた。

「俊なの?!」
 半信半疑の私。これが誰かの冗談とかだったら、私は耐えられないだろう。
――そうだよ。そろそろ迎えに行きたいんだけど、いいかな。

 迎えに来る。
 何処へ。
 誰を。

 私は受話器を持ったまま、立ち尽くしてしまっていた。

「ただいま〜」
 扉を開きながら、子が声をかけてくる。
「お帰りなさい」
「あっ、電話?! ごめん」
 そう云って、部屋へと出て行った。

――帰ってきたね。丁度よかった。今から行くから、二人で待ってて。そうだな、30分くらいで着くと思うから。
 そう云うと、彼は一方的に電話を切った。

 今の言葉を、どう取ったらいいんだろう。
 今から来るって、どうして、そんなことが出来るのだろう。
 それより、今の電話は本当に俊からのものだったのか。

 俊と別れて10年が過ぎていた。
 当時、7歳だった子は高校二年となった。
 あの時、俊が知っていた電話も携帯も今はない。
 俊が、ここの番号を知る筈はないのだ。

 やっぱり騙されてる…。

 涙が浮かぶ。
 もう枯れてしまったと思っていたのに、ほんの少し俊の面影を追っただけで、脆くも崩れてゆく私。
「母さん」
 子が、後ろから支えてくれる。
「大丈夫だよ。大丈夫。何か、あったの?!」
 子の声は優しい。私の心の病気を知っているから、絶対、私を責めたりしない。

「俊だと云う人から電話があったの。30分くらいしたら、迎えに行くからって。でも俊は此処のこと、何も知らないの。だから…、また騙されちゃった」
 背中をさすってくれる子。いつしか、私より大きな手になった。
「分かった。じゃ、とりあえず30分待ってみようか。それで誰も来なかったら、薬飲んで寝よう」
「うん」

 座椅子にもたれると、子が冷たいお茶を入れてくれた。
「有難う」
 少し落ち着いたかな。
 また、子の前で泣いちゃった。
 反省だ。

「母さん。俺は、もう子供じゃないから、そんな顔しなくても大丈夫だよ」
 そう云う息子の瞳の中に、私は夫の面影を見た。
 電話を切って、そろそろ30分。

 待ちたくないのに、待っている・・。

著作:紫草

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