『海豚にのりたい』

その壱「龍神の章」

3

病院
「抜け出したって、誰が?」
 心臓外科医の竜崎医師が不可解な表情を見せる。看護士の慌て方は本物だ。誰かが脱走したのなら、捜しに行かなくてはならない。言われたと同時に椅子から立ち上がり走り出そうとしていた。ただ告げられた、その名が余りにもあり得ない患者の名前だったので、足が止まってしまったのだ。
「悪い。もう一度」
「ですから、高坂加奈子さんです!先生、早く」
 看護師はそう言うと、バタバタと病院を出て行った。
(何故、彼女が…否、動くことなど在り得ない)
 竜崎は、まず病室に行ってみることにした。

 そこには、うな垂れた彼女の母親が座っていた。そして確かに加奈子の姿は、そこには無かった。残された点滴は、まだ半分くらい入ったままだ。ぽたぽたと、針から滴が落ちている。
「高坂さん」
「ああ、先生」
 足の悪いこの母は捜しに行きたくとも行けないのだ。泣きはらした顔をタオルで押さえ、必死に立ち上がると縋るような目を竜崎に向ける。
「今から捜しに出ます。遠くには行けないでしょうから、大丈夫ですよ。すぐに、どうこうなる状態ではありません」
 竜崎の言葉に安心したのか、母親は再び椅子に崩れるように座り込むと小さく、
「よろしくお願いします」
 と告げた。

 竜崎は彼女の背を二度軽く叩いて、病室を後にした。
「何処へ行ったというんだ」
 高坂加奈子はホスピスの、それも、もう最期を待っているだけの患者だった。延命治療には拒否の書類。もうなす術がない状態が二日程続いており、もってあと五日といったところだった。
「あの体で、動けるのか…」
 竜崎は信じられない思いを抱いたまま、加奈子を捜しに外へ出た──。

 数分歩くと、小さなベンチが置いてある。そのあたりには、他にも幾つかの椅子になる物があり、竜崎は此処だろうと予測を立ててやって来た。
 が、先に一人の看護師が戻って来る姿を見つけた。
「駄目です。いませんでした」
 竜崎が何を言おうとしているのか、予感したように答えたのは、看護師長の佐伯だった。
「看護師長。だいたい、どうしていなくなったりしたんですか。彼女は歩けないんですよ。起き上がることだって出来るとは思えない。誰も気付かなかったとでも言うんですか」
 見つからない苛立ちを互いにぶつけるように、言葉がきつくなる。
「それでも、いなくなったとお母さんが言うんです。入り口には自分がいたと言われるのに、それでも消えたって」
 佐伯も、母親の存在を当てにしていたところがあった、と自分を責めていた。動けないという暗黙の了解が看護に手抜きをしたのではないか、と長としての自分も責めた。彼女の顔を見て、自分の苛立ちを彼女にぶつけたことに竜崎も気付いた。
「悪い。婦長を責めるつもりじゃなかった。僕も油断してました。あの体で歩けるなんて誰も思っていなかった。今は捜しましょう」
 その時だった。少し離れた所から、一人の看護師が叫んだ。
「竜崎先生、婦長、見つかりました。加奈子ちゃん、ベッドにいます」
 竜崎と佐伯は顔を見合わせ、次の瞬間、走り出していた。

「廊下は走らないで下さい」
 と、別の看護師の叫んでいる声が後ろに聞こえていた。

著作:紫草



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