『海豚にのりたい』

その弐「カイザの章」

3

事件
 外に出た母親は、優作を引きずるように走っていく。
 子供心に、何かが起こったらしいということは彼にもすぐに判断できた。ただ彼はそれよりも、何も言わずに家を出てしまい、一人残してきた祖母の方が正直心配だった。そんな優作の気持ちなど知るはずもなく、母親は一目散に走っていく。
 いつもなら十分もかからないケーキ屋に、なかなか辿り着くことが出来なかったのは大量の野次馬のせいだった。

 最近大きくなった、と言われていた優作ではあったが、まだまだ小学四年生。群集の大人たちの間に入っては何も見えないのと同じだった。いつもなら後ろからこっそりと見ているような母親が、その野次馬を掻き分けるように前へと進む。その様子を恐ろしいものでも見るように感じ、優作は彼女に引っ張られ進んでゆく。
 生暖かい風が淀んだ空気を動かしているように、異様な空気の重みが変わっていった。

(嫌だ。行きたくない)
 優作の心に、ふと、そんな気持ちが浮かぶ。その気持ちが、母親の握る左手首にグイッと力を入れさせ、母を引き戻そうとした。
 しかし時すでに遅く、二人は群集から抜け出してしまった。そして、そこに見たものを優作は一生忘れない。否、忘れられないだろう──。

 そこには血まみれの人たちが、大勢倒れていた。救急車が到着したばかりのようで、子供の目にも大人たちがうろたえているのが分かった。
 その中に、父親と弟の姿があった。先に見つけた母親が駆け寄って弟の名前を呼ぶ。何の反応も示さない弟は、その手に小さなゼリーの入ったビニール袋をしっかりと握り締めていた。
 アスファルトが、多くの人の血を吸って赤く染まっている。その量の多さが、優作にも分かった。
(こんなに血を流して、みんな助かるのだろうか)
 ふとよぎった不吉な予感は、優作を苦しめるに充分な出来事だった。

 駆けつけた近所の医者が救急隊員と治療に努め、怪我をした人たちは順に病院へと運ばれていく。
 でも父子の順はなかなか回ってこなかった。止血をしようにも、どこに怪我をしているのか、母親には分らなかった。全身真っ赤に染まっていた。ただ、叫ぶように弟の名を呼んでいた──。

 漸く病院に着いた時、父子の状態はすでに手遅れの状態です、と告げられた。死は出血多量によるものだった。
 多くの人が亡くなった。
 新聞にも載った。テレビのニュースでも取り上げられた。小さな街での出来事だった。
 犯人は、最近あちこちで噂されていた暴行魔だったという。警官に追われ、盗んだ車で歩道に突っ込んだ。そして、持っていたナイフで次々と人を刺していったと書かれてあった。数日前女性を襲い、その女性は内臓破裂の重体だった。みんなが怖いと噂しあっていた、まさにその男が犯人だった。
 犯人の男は、その後精神病院に入り、裁判もないまま事件は終わった。

 優作の家族をめちゃくちゃにして──。

著作:紫草



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