『海豚にのりたい』

その参「龍の空の章」

1

天上界
 どこからか、水の流れる音がする…。

 それは小川の静かな流れのよう。山肌から湧き出し、地上に降りる流れのよう。また雨が集まり、小さな水の道を作って流れるようにも聞こえてくる。
 水はゆっくりと流れている。『水の脈(みち)』のあるところ、それが地上界へと通ずる入り口となる――。

 日の本。
 地上界から天上界への水脈を、どこよりも多く持っている国。天上界から見える翆黛(すいたい)は、一番美しく輝いている。
 太古の昔。多くの龍たちは、この美しい国を求めて脈(みち)を辿り降りていった。龍の形ではなく人や獣に姿を変えて。

 通常、龍族と云ってはいても、彼らは人型を取り生活をする。ただ常に水の近くに棲むというだけだ。本来の龍に戻るのは、脈(みち)を通る時や交尾の時など、本能的に身体が反応する時だけである。
 だから宮殿もあったし、後宮も、勿論各戸も揃っている。珊瑚や貝をふんだんに飾り、恐竜や海竜の骨、鱗、そして革を使って造られた都は、それは華やかなところであった。
 人間の世界でいう仕事も当然あり、ピラミッド形式に配置される役職も、実力を考慮し長(おさ)が決めていく。どの役職も他種族からの侵略を防ぐ為のものであり、龍族の話だけでいえば皆至ってのどかに過ごしていた。そんな暮らしが、かれこれ二千年を越えようとしていただろうか。
 唯一の例外は『長(おさ)』である。長だけは特別な証しが無ければ就任することの許されない、たった独りの存在である。現在、春宮(とうぐう)と呼ばれる跡継ぎの龍は、一頭だけであった――。

「やはり往くのか」
 長が珍しく屋敷の外まで出てくると、地上へ行く支度をした一頭の若い龍に声をかける。
「はい。ワタシは人間というものに会ってみたい」
 そう云うと、若い龍は長に背を向け支度を続ける。
「簡単に云うな。お前はワタシの後継者なんだからな。忘れるなよ」
 若い龍は、微かに微笑むだけで返事をすることはなかった。
「どこまでも頑固なヤツだ。そんなに往きたいのか?」
 少々不機嫌になった長が、若い龍の頭に手を乗せる。何も云うことはない、という様相で若い龍は長を睨み返していた。
「そこまで往くというのなら許してやろう。その代わり、人の姿を取ることはならない」
 若い龍の顔が、ぱあ〜っと明るくなったかと思ったら、直後には真っ青に変わっていった。
「龍の形のまま、往けというんですか?」
「一つだけ、変化(へんげ)することも許してやる。ただし水の中でだけだ」
 長の言葉は絶対だ。若い龍は何も云い返すことが出来ず、ただ唇を噛みしめている。
「いいか、ワタシは後継者を失うかもしれないんだぞ。そのくらい我慢しろ。嫌なら降りるのを辞めることだ」
 若い龍…春宮は怒りから眉間に皺をよせたが、長の気持ちを考えれば仕方のないことと怒りを納めた。
 春宮は立ち上がり、長に向かって深々と頭を下げる。
〜水の中だけかぁ〜
 下げた彼の頭の中では、早くも地上界での暮らしの事が巡り始めていた――。

著作:紫草



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