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『風雪』

特別篇 第2章 皐月

 世の中は、自分などいなくても回ってゆく。
 誰も自分を思い出してくれないし、心配もしてくれない。それどころか、いない方がいいんだよね。
 赤川皐月が少年院女子を出てくるまでに、莉玖の居場所を教えて欲しいと散々言ったのに結局教えてもらえなかった。それどころか、誰も迎えにくることがなかった。二年後、皐月は小さなボストンを抱え一人で家に帰った。

 鍵がかかった家。鍵など持ってない。どうしようかと思っていたら隣の小母さんが、そう莉玖と実玖のお母さんが声をかけてくれた。
「お帰りなさい」
 その言葉がどれほど嬉しかったか。皐月はただいまと返しながら、小母さんと手を繋ぐ小さな女の子を見た。
「二人の妹よ。汐莉と言うの」
 皐月にそう告げた後、小母さんはその子に向かい隣に住むお姉さんよと話していた。
「小母さん、莉玖は?」
 皐月にとって知りたいのはそれだけだった。だから聞いた。誰よりも本当のことを知っていそうな気がしたから。小母さんは、何処にいるのか分からないと答えた。

 嘘だ。瞬間、そう思った。この人は皐月から莉玖を遠ざけようとしていると。
「小母さん、本当のこと教えてよ。私、莉玖に会いたいだけだから」
 すると彼女の目は、怒りをたたえ皐月を見る。
「あなたのせいで出て行ったのよ。私の莉玖を返して!」
 それだけ残し家の中へと消えていった。

 暫く立ち尽くしていたら基義が帰ってきた。
「悪い。来週だと思ってた」
 それが本当の言い訳かどうかなんて、もうどうでもよかった。
「莉玖は?」
「あいつはいない。お前を警察に連れて行ったまま、失踪した」
 小母さんの言葉は真実だった。胸がえぐられたような感覚だ。帰れば会えると思っていたのに、ここに莉玖はいないなんて。

 それからは家族ごっこをして過ごしていた気がする。父はやたらと基義に声をかけていた。母は相変わらず鉄格子のある病院に入院していて、退院する話は聞かない。高校はとっくに中退していて、することもない。そんな時だった。大き目の茶封筒を見つけ中を見る。
『甲と乙の親子関係は0%であると証明する』
 甲は基義、乙は誰。その時、閃いた。この人が莉玖の本当の母親ではないのか。
 帰って二月ほどした頃、基義を訪ねて小学生の男の子がやってきた。基義はその子を連れ、外で待つ母親らしき人と隣の家に入っていった。基義をお兄ちゃんと呼んだ彼は誰だろう。もしかしたら、あのDNA検査結果にあった女性、彼女がそうかもしれない。そう思ったら皐月は居ても立ってもいられず矢谷家へと向う。
 そして玄関先に出てきた人に声をかけた。
「莉玖のお母さんですか」
 以前、小母さんに向けられた時以上の怒りを感じる。
「莉玖に近づかないで。実玖ちゃんにも。もう矢谷さんとは縁を切って」
 母だと認めたわけじゃない。でもそうだと思った。母親の愛情だろうか。本気で怒っている。ふと思う。皐月はこれまでそんな愛情を受けたことがない。自分は本当に愛されていたのだろうか。
 一旦、考え始めると悪い方へと気持ちが流れていく。父親の通帳からお金を下ろし、父の歯ブラシと母のブラシをビニール袋に入れた。自分の分はその場で口内を綿棒でこすられるようにして細胞を取られた。結果は四週間後、送付の手続きを取って帰宅した。

 親子じゃない。
 父に聞いたのは、人口受精で産まれたということだけだ。でもちゃんと父と母の子だと言った。基義とも血のつながりのある兄妹だと聞かされたのに。結果は違った。皐月は誰の何だろう。届いた封筒を胸に抱えたまま、街を彷徨うように歩いた。自分が何処にいるのかも分からない。ただ、もう何処にも自分の居場所などなくなったように思えて仕方がない。
 そんな時、一枚の小さな張り紙を見る。
『住み込み可。カウンターレディ募集』
 ここに申し込めば、住むところができる。扉に手をかけようとした時だった。
「何してる」
 それは夢にまで見た人の声。忘れることなどできない人の、誰よりも会いたかった人の声。
「莉玖」
 皐月は振り返り、それが幻でないことを確かめる。
「本当に莉玖?」
 何言ってんだよ、と昔と同じように笑っているが、やはり皐月の知る彼とは違って見える。
「こんな所で何してるんだよ」
 そう言われても、ここが何処なのかが分からないというと、すぐに帰れと追い返されそうになった。自分はこの張り紙のところで働こうと思うと言うと、そんなところで働くなと。
「お前、暇なんだろ。ちゃんと昼間働けよ。夜の仕事はきついぞ」
 言いながら歩き出す莉玖を追って、皐月もついていく。
「これからバイトなんだ。悪いけど、これで」
「待って。連絡先を教えて」
 そう言っても彼は何も言わない。だったら、自分も莉玖のバイト先で働きたいと言うとコンビニで履歴書買って持ってくればと言われた。
「でもお金なんて持ってない」
 ここまでどうやってきたんだと聞くから、歩いてきたと言った。
「半日かかるぞ」
 半日どころか、もっと歩いてるよ。午前十時には家を出たから、そろそろ七時間くらい経つかな。
「マジ? これで帰れ」
 莉玖は千円を出して渡そうとしてくれた。でも受け取れない。
「もう時間なんだ。ほら」
「じゃ、待ってる」
 そう言うと莉玖は仕方がないなと、千円を手に握らせてくれる。温かい莉玖の手。
「これ、見て」
 その手に持っていた封筒の中身を渡す。彼は暫くその書類を読んでいたけれど、顔を上げると十一時まで帰れないからと言って、今度こそ振り向かず歩いていった。入っていったのは炉端焼きのお店の裏口だ。少し歩くと公園がある。皐月はそこのブランコで莉玖が出てくるまでの六時間を過ごすことにした。
 待つことがこんなに幸せだなんて知らなかった。何も要らない。家族も血のつながりも、莉玖がいてくれたらそれでいい。

「金渡したろ。どうして公園なんかに」
 少し眠っていたようだ。莉玖のそんな言葉にハッとする。そのまま通りを一本移動するとファミレスがあり、莉玖は何も聞かないまま入っていった。店員に席を示され皐月を残すと、そのまま公衆電話に向かう。どこかに連絡を入れているみたい。今、彼はどこに住んでいるんだろうか。
「何でもいいから頼め」
 ぶっきらぼうだけど優しい言葉。昔もよく聞いた。自分はそれを当たり前だと思っていたから、実玖が憎らしかったんだよね。莫迦莫迦しい話だ。こんな簡単なことに気付かなかったなんて。
「莉玖が好き」
 メニューをめくる手が止まる。
「ごめん。何でもない」
 出てしまった言葉は返らない。聞いてしまった莉玖はどうするだろう。

 あれこれ文句を言いつつも、ホットケーキを食べることにした。
 いつも何食べてるんだよと聞かれ、カップ麺とかお父さんが買ってきたコンビニのお弁当かなと答える。すると、もう何も聞かれなくなった。
「DNA検査、どうしてやろうと思った」
 突然、莉玖が話を戻す。
 基義と知らない女の人との親子鑑定を見つけたの。そこから始めた。そして荻野葉子という人に会ったこと。そして自分の疎外感が家族を証明したいと思ったのだと。
「裏目に出たけれどね」
 そう言ったら、気持ちは分かると言われた。結局、何も教えてもらえなかったけれど、いろいろ聞いてもらえて気持ちが少し軽くなった。それから同じ炉端焼き屋さんでバイトをすることにした。頭悪いけれど、とにかくクビにならないように一生懸命覚えた。分からないことがあると莉玖に聞きに行っていたから、店長さんに知り合いかと聞かれ困っていたら、幼馴染みですと答えてくれた。嬉しかった。邪魔者扱いされても文句は言えないのに、余計なことを絶対に矢谷の家の人に話さないことって言われて、秘密を共有してるみたいに思えた。
 毎日が楽しかった。莉玖がシフトに入っていない日もお店に立つようになって、お客様で莉玖が来てくれた時はもっと嬉しく思った。こういうとこ、気をつけろって少しずつ教えてくれる。このままの毎日がずっと続けばいいのに。本気でそう思っていた。けれど、そうはいかないものよね。皐月には幸運の女神はいないから。
「暫くしたら家に帰る」
 冬のとある日。開店前の準備をしていると、突然言われた言葉だった。

 何となく誕生日になるんじゃないかと予想してた。だから、その日はお休みをもらって玄関でずっと待っていた。夕方になって、今日じゃなかったのかなと思ったところに莉玖の声が聞こえてくる。
 暫くざわついていた気配がなくなり、静かになったところで小窓から外を見た。そこには見つめ合う二人の影があった。胸がきりきりと痛む。莉玖との二人だけの秘密がなくなってしまった――。

 でも実玖にとっても家族団欒の時間は長くは続かなかった。大学を卒業した莉玖は再び一人住まいを始めたから。皐月は就職先の近くのコンビニでバイトを始め、駅前のカプセルホテルで寝泊まりする生活になった。忙しそうな莉玖のところに時々、実玖がやってくる。二人を見るのは辛いけれど莉玖の姿を見られるだけで、それだけで幸せだった。もし皐月がもっと賢かったら、ストーカーになったかもしれない。でもそれすらなれないくらい皐月には知識がない。だから、こっそりと見ている。いつか見つかってしまう日まで。そう思って、何度も裏切られた神様に手を合わせる。一日でも長く莉玖が気付きませんようにと。
 だからコンビニに莉玖が現れた時、もう終わったんだと思った。自分の人生の終わり。コンビニを辞めたら誰も知らない所に行こうって、そう決めてた。なのに。
「いつから働いてたんだよ」
 莉玖は普通に話しかけてくれた。
「去年の春から」
 そう答えたら、それって俺の就職と同じじゃんと彼が笑った。

 それから色々な話をして、莉玖の隣の部屋に住めることになった。料理も教えてくれるという。ただし、どちらの部屋に行くのも実玖が来る時に三人でという約束をした。分かってる。これ以上は何も望まない。実玖も嫌だろうに、隣に住むことを許してくれた。家族と血のつながりがないことは、誰にも言わないと決めた。血液型からは分からない。母は真実を語れない。ならば基義にも父にも告げる必要はないだろうからと。
 それなのに隣に住むようになってすぐ、皐月は高熱を出して倒れた。コンビニの店長に何とか連絡しなきゃと思うものの携帯を持たない皐月にはそれができない。結局、無断欠勤になってしまった。また駄目な人間だと後ろ指をさされる。でも気力も出なかった。莉玖の近くに居られるようになって安心したからだろうか。とにかく布団から起き上がることのないまま二日が過ぎ、このまま死んでも構わないと思っていた時だった。
「皐月。いるんだろ。具合悪いのか」
 莉玖だ。
「どんな格好しててもいいから、這ってでもいいから鍵開けろ」
 思考は残っていなかった。ただ莉玖の声がドアを開けろというから、それだけだった。
「大丈夫か」
 その言葉を最後に皐月は意識を失った。

 いい匂いがする。それで目が覚めた。
「起きた?」
「莉玖」
 起き上がろうとしたら、手を貸してくれる。食べられるかと言って、雑炊を出してくれた。
「美味しい」
 それはよかったと言って、今度は少し多めによそってくれる。
「コンビニの店長さんが連絡が取れないから居場所を知ってるなら見に行って欲しいって。お前、まだカプセルホテルにいると思われてたぞ」
 クビじゃないの?
「一年間、一度も無断欠勤も遅刻もないから心配だって。時々話してるのを見かけて知り合いだって覚えてくれてたらしい」
 お昼に外から帰ってきてコンビニに行ったところを呼び止められたという。驚いて時計を見る。まだ三時だ。仕事は?
「早引けしてきた」
 そんな……。
「いくら三人でしか会わないって言ってても病気の時は別だろ。昨日のうちに壁叩けよ」
 そして少し大変になっても携帯を持てと言われた。莉玖には言われたくない科白だな。ずっと持ってなかったくせに。そう言いながら涙が出てきた。誰かが心配してくれる。食事を作って薬を買ってきてくれる。それが、どんなに有難いことかをこの年で初めて知る。
「さすがに洗濯までは無理だから実玖を呼んだ。何でも言いつけろ」
 駄目。皐月は慌てて首を振る。これ以上、迷惑かけられない。もう大丈夫だから。だから断って。
「小母さんのこともあるでしょ」
 全て皐月のせいだ。あんなに優しい小母さんの心を壊してしまった。
「本当に平気だから。実玖に来なくていいって言って」

 必死に訴えて漸く断りの電話をしてもらっている。少し疲れて、横になった。
 今までの我が儘を通していたら、莉玖はいなくなってしまう。自分でできることを増やして、実玖にも教えてもらって、それでちゃんと友達になれるようにする。好きな気持ちは変わらないけれど、絶対に言わない。
「あれ。お前んちの洗濯機ってどこ」
 うとうとと微睡んでいたらしい。その言葉も最初はよく分からなかった。洗濯機って言ったの。
「ないよ」
 ないって、洗濯どうしてるんだよと問われ漸く目が覚めてきた。
「洗面器で洗ってる」
 マジかよと驚く莉玖に何だかおかしくなる。だって大したものなんてない。洗濯機なんて使わなくても大丈夫だよ。横になったままでそう言うと仕方がないなと頭をかく姿が見える。週末には洗濯機貸してやるから彼の部屋の洗濯機を使えばいいと言われた。
「何て顔してるんだよ」
「毎週、実玖が来るの?」
 だって二人では会わない約束。今日は特別、皐月が病気だから。
「まさか。洗濯くらいの時間なら掃除でもしてたら過ぎるよ」
 莉玖は優しい。体が弱っていることもあるのだろう。よく分からない涙が溢れてきた。

 あれから何年も過ぎた。でも何も変わらないわけじゃない。きっと目に見えないどこかが変わっている。それでも同じような生活を続ける皐月はコンビニの正社員になり、お給料もぐんと上がった。そんな頃だった。
「ここを出ていくことにした」
 莉玖がそう言いにきた。ついに、その時がやってきた。でも、もう大丈夫。二人がいなくても生きていけるくらい思い出をもらったから。
「結婚するの?」
 そう尋ねた皐月に、まだ決めてないと言う。自分たちは三十四歳になっていた。莉玖は一つ上。もう充分待ったじゃない。これ以上実玖を待たせたら可哀想だ。
「ごめんね。もう私は平気だから。二人の前には現れないから幸せになって」
 覚悟はしてた。でも今日まで近くにいてくれた。これ以上望んだら罰が当たっちゃうよ。そう言って笑う。すると莉玖の方が泣き笑いのような顔をする。
「引っ越しはするけど連絡を断つわけじゃない。お前の孤独を俺だけは分かってるから」
 だから、そんな顔をするなという。どんな顔だと手のひらを頬に当てると涙が流れていた。気付いてしまうと涙は止まらなくなった。莉玖の言葉が嬉しくて、でも離れるのは寂しくてもう言葉にできることなんて何もないのに泣いてしまう。
 ふわっと、暖かい何かに包まれた。莉玖が抱き寄せてくれている。驚いて顔を上げると、見たこともないくらい近くに莉玖の顔を見た。再びその胸に抱きしめられた。今度こそ、本当にさよならだ――。
To be continued.

著作:紫草



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