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『風雪』

第12章 汐莉

 人は持って生まれた宿命を背負っている、と言う人がいる。どんな親のもとに産まれようが、どんな家庭に育とうが、逃れられない運命が待っているとも。
 自分が知る一人は、正しくこんな言葉の似合う人だ。同じ親から産まれた姉妹なのに。彼女の言う幸せだよの、その一言が言われた刹那ポロポロと欠けて壊れているような気がする。矢谷汐莉、十八歳、兄の莉玖が運命の選択をした年齢になっていた。
 父がいて母がいて、汐莉は上の二人とはかなり年齢が離れていることもあって甘え放題に育った。普通の家族と違って、兄と姉が恋人同士だということもマセた子供だった自分は早々に気付いた。
 ただ失踪していた兄が帰ってきた時のことを、あまり憶えてはいない。母方の祖母と、後から父方の祖父もやってきて家族中が大喜びしていたことだけだ。それまで家族の笑いは自分の回りにしかないものだと思っていたから、兄莉玖を中心に人の輪ができると何だか少し拗ねたような気持ちになった。すると彼はすかさず自分に腕を差し出し膝に抱いてくれたことは憶えている。
 途端に、いつもの光景に戻った。大きなケーキには一本だけロウソクが灯されて、何故か汐莉が吹き消した。

 戻ってきたとはいっても、莉玖は大学を卒業すると就職先への通勤に時間がかかりすぎるということから再び家を離れることになった。それは当たり前のことのように思ったし、幼過ぎた自分にそれ以上の意味は分からなかった。
 しかし母の精神状態が不安定で、その上、若年性健忘症と診断を受けていると知らされた時の汐莉の驚き。五年生の夏だった。兄妹であり恋人である二人が一緒に住むことは母の為にならないと思ったんだ。そう気付いた。だから莉玖は出ていった。そして母の様子を見ながら実玖は莉玖の部屋へ出かけていく。
 莉玖が失踪した時、母は実玖までいなくなるかもしれないと思ったそうだ。それはきっと二人の気持ちを知っていたから。二人を失うかも、その恐怖に耐えられず、心が壊れてしまったのだろうと父が言う。戻ってきた莉玖は大学卒業までの数ヶ月を一緒に暮らしたが、すごくいいお兄ちゃんだとすぐに分かった。母のことも実玖のことも、みんなが幸せになるために自分はここにいちゃいけないって思ったのかな。
 恋人ならもっと行けばいいのに、マセてた自分は実玖にそう言っていた。実玖が可哀想で、汐莉がママの面倒を見るから大丈夫だよと言ったこともある。結果は大失敗。母は実玖がいないと半狂乱になり、汐莉のどんな言葉も聞いてはくれなかった。情けないことに――。
 あれから四年になる。
 相変わらず、二人は恋人同士のままだ。隣の赤川基義が早々に結婚して出ていったことを思うと、何だか居た堪れない。何とかしてあげたい。でもできない。何もない時の母は穏やかな人で父とも仲良しで、実玖も汐莉もそれは大事にしてくれる。それでも、そんな幸せな日々のなかに、何かが重く伸し掛かっているような感じだった。

 このところ実玖が莉玖の部屋へ行く回数は増えている。汐莉も高校生になって母の背を抜いたお蔭で色々とできることが増えた。それに莉玖の弟の亮介が時々様子を見にきてくれる。彼は介護福祉士になった。最初の受け持ちさんが母だという。そして汐莉は彼が初恋の人。めちゃくちゃかっこいい人だから。小さな時から彼以上の男を見たことがないってくらいに好きだ。
 その日、母は機嫌がよくてリビングで本を読んでいた。そこに莉玖の所に行っていた実玖が、莉玖と一緒に帰ってきた。

 母のなかで兄妹になったり、恋人になったり変化する。その時々で状況を判断しなければならない。今日の母は二人をどう見るのだろう。すると、すぐにまた誰かがやってくる。今日はお客様がいっぱいだ。玄関に出ると亮介だった。汐莉のテンションは一気に上がる。玄関先で少し母の様子を確認する。いつものことだ。
「今日は大丈夫。何も忘れてない」
 ただ二人が来たばかりだから、今戻るとどうなってるか分からない。そう答えた。亮介は小さなメモに何かを書きとめ、了解と言いながら上がる。
「亮介、来たよ」
 リビングに入ると、実玖にまた呼び捨てにしてと窘められる。いいですよ、汐莉にそう呼んでもらうと自分も同じ兄妹って気がするから。そんな亮介の返事もいつもと同じ。母は笑ってる。でも何か違うと思った。
「お母さん。どうした?」
 何が違うのか、よく分からない。ただ、いつもの母とは雰囲気が違うような……。
「おばさん。何か、いいことあったかな」
 亮介が近づいていって、そう声をかける。
 え? いいことって?

「莉玖がね、結婚するんだって」
 驚きのメーターが振り切れたと思った――。

 亮介は明日が早いからと、今夜は食事をしないで帰って行った。物凄い爆弾を投下して。
 結婚する、莉玖が。それだけ確認して帰るなよ〜
 相手は実玖よね、絶対に。でも母は莉玖と実玖がとは言わなかった。どういうことだろう。
 頭の中がぐるんぐるんして、もう何にも考えられなくて、だからおめでとうを言わなきゃいけないって分かってるんだけれど、何だか言葉が出てこない。
「部屋、行ってるね」
 こういう時、末っ子は逃げるって決まってるのさ。莉玖を見ると、分かってるというような表情をしているように見えた。ごめん。あとでゆっくりと聞く。今は頭を整理してくる。
 父が帰宅して食事の支度に呼ばれるまで、汐莉は下りなかった。

 母の様子はいつもと同じようだ。
 実玖がいれば大抵はこんな感じ。でも今日は違うだろうと思っていたから、少し拍子抜けしてしまう。莉玖に小声でどうして結婚なんて話になったのかと聞いてみる。莉玖は立ち上がると、こっち来てと二階へ上がった。実玖の部屋だ。莉玖の使っていた部屋は汐莉が使っているから。
「引っ越すことにしたんだ」
 開口一番は結婚とは全く結びつかない話だった。
「引っ越し?」
 そう、と答える莉玖だったが、それを母は結婚するから引っ越すのだと勘違いしたらしい。ただね、と続ける。結婚して同居するって思っちゃったみたいなんだ。
「え?」
 母の中で莉玖という人は絶対に必要な人。家にいないと不安が増してしまう。だから引っ越すという言葉で戻ってくると思い込んだようだ。
「実玖ちゃんと結婚するの?」
 これまで何度も聞こうと思って、でも聞けなかった言葉を言ってみる。
「できないな。母さんが俺たちのことをずっと夫婦だって理解できるとは思えないから」
 じゃ、どうするの?
 喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。まだ言っちゃ駄目だ。
 少ししてまた呼ばれる。今度こそ食事のようだ。
「行こう」
 莉玖はあっさりと出ていった。

 実玖は来年三十五歳になる。
 本当に結婚して一緒に出ていけばいいのに。母は大事だ。でも実玖も大事な家族なのだ。
 下りていくと、母が不機嫌になっていた。今度はどうしたのだろう。
「莉玖はここには帰ってこないんだよ」
 父が諭すように話していた。

 どうして急に引っ越すことにしたのだろうか。汐莉はその方が気になった。聞いてもいいことだろうか。それとも母の前では禁句になるだろうか。
「実玖はここにいるわね」
 まただ。同じ会話の繰り返し。
「お母さん。私がいるじゃん。実玖ちゃんだってそろそろ結婚した方がいいよ」
 すると実玖には決まった人がいるから駄目だという。そこまで理解していながら、どうして莉玖とのことだけ忘れてしまうのか。
「お母さん。実玖ちゃんだって赤ちゃん産みたいと思うよ。もうちゃんと覚えてあげようよ」

 父も莉玖も、そして実玖も、みんなが汐莉を見る。
「私、もう子供じゃない。実玖ちゃんが妊娠してることくらい分かる。でも、今のままだとまた前みたいに堕ろすんでしょ」
 実玖は三年前にもたぶん妊娠してた。でもいつまで経っても、お腹は大きくならなくて莉玖との関係も変わらない。
「私、嫌だからね。今度こそ、ちゃんとおばちゃんになりたいの。お母さんが莉玖を守ったなら、実玖ちゃんはお腹の赤ちゃんを守るべきだよ」
 父が、本当かと実玖に尋ねている。どうやら気付いていなかったらしい。男の人なんてそんなものか。でも莉玖は違う筈だ。そんな思いで彼を見る。
 困ったような顔をしていた。
「どうして、そんな顔をするの?」
 心の声が言葉になってしまった。
「汐莉のいう通りだな。ただ、結婚相手は俺じゃない方がいいかもしれない」

 青天の霹靂、という言葉を知ったのはいつだったろう。
 実玖とは結婚しないってこと? じゃ、お腹の中の父親は誰。そんな思いを目で語る。
「ちゃんと俺だよ。でも皐月が納得しないような気がする」
 もうずっと忘れていた名だった。基義が出て行ってからは、話題にすら上らなくなっていた人だ。少年院を出てきた後、何処かに行ったきりの人。実玖を虐めていた人。泥棒した人。そして莉玖を好きだと追いかけた人――。
「皐月が、どうして関係あるの?」
 いろいろあった。そう莉玖は言う。そんなことは分かっている。でも実玖との結婚に何故彼女の名が出てくるの。
「今のアパート、隣に住んでるのは皐月なんだ」

 愚かだった。
 莉玖の部屋に行くことは殆どなかったから、赤川皐月の存在など知らなかった。
「まだ実玖ちゃんを虐めてるの」
 この問いには実玖が答える。
「それはないよ。皐月はりっちゃんが好きだから、近くにいられれば落ち着いてる」
 やっぱり自分は子供だ。何も知らなかった。ただ実玖に赤ちゃんを産んで欲しいから。それだけで口走ってしまった。
 あ。お母さん。
 見ると、凄く驚いた顔で実玖を凝視している。また失敗した。どうして自分は後先考えずに物を言ってしまうんだろう。
「実玖ちゃん、ごめん」
「ううん、ありがとね」
 頭を撫でてくれながら、実玖は笑う。

 母は赤ちゃん産むの、と分かっているのかいないのか。そんな言葉を繰り返す。
「もう最後のチャンスかもしれないから。でも、りっちゃんのいうように別の人との結婚なんて考えたことはないよ」
 結婚しなくても子供は産めるから、そう言った実玖は決して幸せそうには見えなかった。
 それは莉玖も同じ。引っ越しは皐月から離れるためだと彼は言う。もしかしたら何かが変わるかもしれないとも。
 分かった。自分にできることは何でもする。
「それより、お前大学どうするんだよ」
 あ、推薦合格したこと、言うの忘れてた。
 みんなが一瞬の間をおいて、おめでとうの賛辞を浴びせてくれた――。

 莉玖の言うように、赤ちゃんが生まれたら何か新しく始まるかもしれない。
 汐莉が生まれて実玖が変わったように、家族に笑顔が戻ったように、赤ちゃんが莉玖と実玖に幸せを届けて欲しい。汐莉は心からそう願う。そして今はそれだけを祈ろう。
To be continued.

著作:紫草



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