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『風雪』

第4章 直哉

 所謂、閑静な住宅街だ。うちの近所に比べると新しい家が多い。箱崎直哉が矢谷莉玖に呼ばれて、ここに来るのは二度目だった。
 今度はどんな話だろう。それでも、前回に聞かされた話よりもヘビーなことはないだろうと、この時の直哉は考えていた。
 何故なら前に聞かされた話は、一高校生が受けとめるにはかなり重いそれだったから。

 あれは高校に入学して最初の夏休みを一週間ほど過ぎた頃だった。図書委員の当番で登校した時のことだ。矢谷実玖は同じA組の図書委員、そしてその日は同じ当番になっていた。
 司書の先生から本の整理をすると前もって聞かされていたから、実玖が来る前に作業を始めていた。暫くして彼女がやってきたのだろう。扉の開く音がし、誰かとの話し声も聞こえた。あとで気まずい思いをするのも嫌だったので、作業を中断し図書の受付カウンターへと向かう。すると実玖ではない誰か別の人間の声がした。
『私も一緒に学校に行けるように、基義に言ってよ』
 実玖は何か返事をしたのだろう。でも、次のその女子生徒の言葉が直哉の足を止めた。
『一人だけ良い子ちゃんでいるつもり? 学校中にバラしてやる。あんたの誕生日、本当は早生まれじゃなくて春だって。莉玖が冬。どう考えても兄妹じゃないよね。どんなに誤魔化したって無駄なんだから。私は証拠を持ってるんだからね』
 普通に声をかけることは止めた方がよさそうだ。直哉は奥に戻り、大き目の本を、ごめんと謝り一冊落とした。
 たぶん出ていったのだろう。改めて扉の開く音がして静かになった。二人ともいなくなったのか、それとも実玖は残ったのか。
「箱崎君。聞こえちゃったね」
 隠す必要はないだろう。黙って首肯する。
「ちゃんと話がしたい。箱崎君のことは信用してるから、よかったら聞いて欲しい」
 実玖はそれだけ言って、返事を聞くことなく直哉が始めていた作業に取り掛かった。

 当番の時間が終わり、先生に帰ってもいいと告げられる。そこで改めて実玖を見たが、彼女は何も言わないまま帰ろうとしていた。
「実玖」
 どうして名前を呼ぼうと思ったのかなんて、自分でも分からない。ただ、どうしても呼び止めたいと思った。それだけだ。
 扉に向かっていた実玖が振り返る。
「話を聞くよ」
 実玖はありがとうと言い、そのまま何処かに電話をかけ始めた。聞いていると先ほど名前の挙がったリクという人だと分かる。電話を切ると、実玖は言った。
「兄の莉玖が家に来て欲しいって。誰にも聞かれたくない話だから」
 お昼は実玖が作るよと微笑みを見せる。何て強い女の子なんだろうと、この時直哉は思った。そしてどんな事情があるにせよ、さっきの理不尽な物言いをするような生徒から守ってやりたいと。十六歳なりの正義感だった――。

 実玖が開けてくれた玄関を、お邪魔しますと入る。
「先輩、こんにちは」
 リビングにはすでに莉玖が座っていた。
 文化祭での礼を最初に言われ、すぐに急に呼び出したことを詫びられた。
「暇してましたから。それに実玖の飯は美味いし」
 いつもなら、そこで食べたいものはないかと聞かれる。しかし、この日はそうではなかった。
「悪い。実玖は今、台所に立てないからピザを取るよ」
 ピザが珍しいのではない。台所に立てないというのはどういう意味かと思っただけだ。直哉の思いに気付いたのだろう。実玖は羽織っていた上着を脱いだ。肩から左手まで真白な包帯が巻かれていた。

「何があった」
 また皐月が何かしたのか、と瞬時に考えた。
「実玖は教えてくれないんだ。皐月が嘘を言ってるのは分かってる。でも」
 そこで莉玖は言葉を切り、深呼吸をする。
「味噌汁の鍋が、ひっくり返った。そして左半身にかかった」
 それが実玖の話す全てだと莉玖は言う。しかし、その場に最初に行った時、実玖は買い物に行ったと皐月は嘘をついた。
 近づいていったら実玖の呻き声が聞こえ、白いブラウスが皮膚に張り付いて透けて見える肌は真っ赤になっていた。大火傷だとすぐに分かったらしい。救急車を呼んで病院に着くとすぐに処置室に回されたそうだ。
「こんなことになってるのに、どうして庇う」
 直哉は実玖に向かって言葉を投げた。皐月に対する怒りが込み上げてくる。
「彼奴がやったんだろう」
 実玖が右手を胸に置く。
「りっちゃんと離れたくない。皐月が持ってるっていう私たちに血のつながりがないっていう証拠が怖い」
 実玖の想いは純粋だ。
 最初に打ち明けられた時、兄妹の恋愛という現実を直哉はすぐには受け止められなかった。ただ皐月の言葉から守りたい。そのことだけで莉玖と約束をした。少なくとも皐月のクラスは離れている。放課に気をつければ放課後は莉玖か、皐月の兄の基義が来る。

 暫く言葉のないまま時が流れた。
 法律上、二人の恋愛は認められている。でも周りの人はどう思うか。それを恐れていた。離れ離れになることが一番怖いと言う。
「別に暮らすことになったとしても、学校では逢えるだろ。皐月をこのままにしておくのは誰の為にもならない」
 莉玖は覚悟を決めたよ、と言う。
「祖母ちゃんの所に行け。毎週、逢いに行くから。その火傷じゃ通学も難しいだろ。暫く休んだ方がいい」
 莉玖の言葉の途中から、実玖は泣き始めていた。

「先輩。実玖は一人になるんですか」
 どうしてこんなに辛そうなんだろう。お母さんの実家なら大丈夫だろうに。
「祖母ちゃんはさ。俺とのこと、認めてくれてないから」
 それでも、ちゃんと逢いに行くさ。莉玖は言いながら隣に座る実玖の頭を撫でた。
「直哉。実は弟か妹が生まれるんだ」
「え?」
 小母さんの妊娠が分かってすぐ、皐月とぶつかったらしい。偶然かもしれないが怖いと思ったという。赤川の小母さんが警察病院に入ることになった頃で、基義と皐月はよく食事に来ていたそうだ。事件の影響もあるのだろうと、話し合って生まれるまで実家に戻ることにしたのだと。
 それから実玖が代わりに食事を作るようになった。皐月は当然のようにやってきて、実玖の部屋で過ごし食事をして帰っていったと。
「物が消えるんだよ。でも失くしたとか、捨てたとか。実玖は絶対に皐月の名を出さない」
 でも、もう許さない。だから直哉にも、皐月を一切近づけないように見張ってほしいのだと頼まれた。

 実玖はそのまま荷物をまとめ、直哉も一緒に送って行った。実家の場所を覚えてほしいからだと莉玖は言う。
「学校来ることにしたら連絡をくれ。迎えにくるから」
 通学時間は一時間というところだろうか。家からなら三十分。少し早起きすれば大丈夫だろう。
 家を離れると頷いた時から、実玖は何も言わなくなった。静かに泣く姿は本当に可哀想だった。

 翌日、学校へ行って莉玖を捜す。しかし何処にもいない。職員室に行って、担任の先生を捕まえると衝撃の事実を知らされた。
「矢谷なら退学したよ」

 昨日、莉玖は退学を決心していたのだろうか。
 自宅に電話をする。しかし留守番電話に切り替わる。メッセージを残し切った。彼は携帯を持っていない。学校で会えば何とかなると思っていた自分は浅はかだ。
 きっと実玖は感じていたのだろう。莉玖が消えてしまうことを。

 放課後、再び電話をかける。莉玖の声を聞くことはできなかった――。
To be continued.

著作:紫草



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