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『風雪』

第5章 葉子

 言葉にならない哀しみがある。
 愛するという感情を覚えたのはいつだったろう。萩尾葉子は十六で赤ん坊を捨てた。若すぎて愛の意味も社会のルールも知らなかった。当然、赤ちゃんを捨てちゃ駄目だってことも――。

 無知だった。妊娠し男は逃げ、独りで出産した。よく無事に産まれたと思う。家族が誰も自分に関心を持っていないから、できたようなものだ。家族が旅行に出掛けた自宅は赤ん坊の声が響き、帰ってくるまでに何とかしないといけないと焦っていた。とりあえず年末年始だけは育てた。でもそれ以上は無理だった。

 新しくできた住宅街には教会があった。初めはそこに連れて行こうと思って歩いていた。二本目の道を入ると少し歩いた所に新しくて、それでいて懐かしいような家が現れた。玄関先にお腹の大きな女の人が見える。この人なら何とかしてくれるんじゃないかと思えた。家に入ったのを見届けると門の前に赤ん坊を置く。 名前もつけることはなかった。寒い夜だった。死んでもいい。とにかく手離したかった。母性なんてものは皆無だった。

 数年が経ち卒業し就職した。結婚もして子供も産まれ、過去に自分のしたことがどれほど残酷なことだったのかを思い知らされる。そして遠い記憶を辿り、あの住宅を探す。大通りから二本目の道を入ると、高校生らしい男の子が立っていた。
 あの子に違いない。もしあの子なら十八歳になる年だったから。
 チャイムを鳴らし、ご子息の出生について話したいのだと告げると父親と思われる男性が出てきた。
 確かめたいだけだと前置きし、簡潔に聞く。
「ご子息は養子ですか」
 その人は酷く驚いた顔をして、どうしてそんなことを聞くのかと逆に尋ねてきた。
「私、知ってるんです。要求があるとかじゃないです。私にも生活がありますし。教えて下さい。養子ですか」
 逡巡しているようだった。でも暫くして彼は頷いた。言葉こそ何もなかったけれど、それで充分だった。少なくともこの時までは。

 偶然見つけた小さな週刊誌の記事。
 あの子のいる住所が載っていた。そして妻が夫を刺したと。あの子を引き取ってくれた家と同じ住宅街だ。大丈夫なんだろうか。
 でも記事は小さくて詳しいことは分からない。葉子は夫に真実を話し息子に会うためにやってきた――。

 赤川という表札が出ている。こんな名前だったのかと初めて知った。深く関わるつもりがなかったから、よく憶えてはいない。それでも十八になる男の子を捨てたのだけは真実だ。
 チャイムを鳴らし名を告げる。玄関先に出てきたのはあの子だった。
「私が、貴男の実の母親です」
 彼は驚かなかった――。

 この住宅で妻が夫を刺すという記事を週刊誌で読んだのだと話した。近くだったらと思うと心配でならなかった。お父さんに話を聞けたらと思って来たのだと言うと、彼は笑った。酷くシニカルな笑いに見える。
「その事件。うちの親ですよ。父は病院のベッドで眠ったままです」
 彼の口が何を言ったのか。
「お母さんが逮捕されたの」
「いいえ。病院です。心が壊れてしまったらしい」
 衝動的だったことは認めよう。でも現在の暮らしの安定が、彼を此処を置いておくことを許容しなかった。
「私と一緒に来ませんか。許されるなら貴男を引き取りたい」
 そこで漸く彼の名を知らないことに気付く。モトヨシとだけ答えてくれた。

 近くのファミレスに場所を移し話をした。妹がいるという。よかったらその妹も一緒にくればいいと言ったら、結構だと断られた。
 どちらでもよかった。葉子には基義だけが大事な子なのだから。
 学校は遠くなってしまうから転校すればいい。大学に進むつもりなら私立高校を選べばいいと話すと、彼は黙って頷いた。
「お子さんはいないんですか」
「男の子が一人。基義君とは十歳違いになるわ」

 暫くして彼が言う。
「先にDNA検査をしましょう。そして正式に引き取ってもらえますか。あの家に未練はないですから」
 酷い暮らしのようには見えなかった。でも彼にそんな言葉を言わせる何かがあったのかもしれない。
「分かった。病院の予約をしたら連絡します。携帯の番号を聞いてもいいかしら」
 彼はアドレスと一緒に紙に書いて渡してくれた。

 でも思った通りにはならなかった。突然、彼から電話があり、これから行きたいと。夫に車を出してもらって迎えに行った。
 今度は女の子が出てきた。
「基義を呼んで下さい」
 夫が名指しすると彼女は微笑みを見せた。どこか作り物のような笑顔だ。待っていてくれと言って彼女は家の中に消える。
「不気味な子だね。まだ高校生なんだろう」
「ええ。一つ下だと言っていたから、十七歳よ」
 夫が車で待つ息子の亮介の顔を覗き込む。似てるのかな、小さな呟きだった。
「余り似てなかった。昔過ぎて父親の顔を憶えていないせいもあるけれど」
 少なくとも自分には似ていないと思った。

「お待たせしました」
 彼がそう言ってバッグを持って出てきた。
「初めまして。萩尾孝介といいます。まずは荷物を預かろう」
 夫が歩きながら荷物を受け取り後部座席に座るように言う。助手席に眠る亮介に気付くと、眠っちゃってたんですね、すみませんと頭をさげた。

「何かあったのかな。急に来たいということは」
  暫く車を走らせたところで夫が聞いた。基義は余り話したくないと言ったものの、それじゃ置いてもらえないからと説明を始める。妹、皐月という名前だそうだが、傷害罪で少年院に行くことになりそうだと。血のつながりなんてないのに、兄妹として見られるなんて最低だ。そう言って怒っているようだった。
「傷害って誰に怪我を負わせたの」
「隣の家の女子高生です。熱い味噌汁の鍋を投げつけました。その子が酷い火傷を負って。それ以外にも彼女のものが家の中から見つかって、窃盗もつくかも」
 でもさっきは家にいたじゃない。思わず声に出してしまった。
「そうです。現場検証をしているところでした。あの家、今チャイム鳴らないんです。窓の外に車が止まるのが見えたんでしょう。知らないうちに下りて行ってました」
 愕然とした。そんな女の子と一緒に育ってきたというのか。改めて自分のしたことの後悔が襲ってくる。

「これからは安心して暮らせばいいわ。学校は休学したっていいし。どうすることがいいか、ゆっくり考えましょう」
 基義は疲れているようだった。彼の頭を撫でてやると、目を瞠り視線を向けてくる。まるで小さな子供のように、肩を震わせ泣いているように見えた。

 何もかも上手くゆく筈だと思っていた。これからは家族水入らずで、静かに暮らしていけるのだと。
 亮介は基義に懐き、小学校から帰ってくると真っ先に彼の部屋にただいまを言いに行く。
 彼を引き取って、一ヶ月後。DNA検査の結果が出た。結論からいえば、葉子と基義に親子関係はないと判断された――。

 何故。
 結果を持ち帰った夫は内容を読んで驚いていた。どういうことだと詰め寄られる。そんなことはこちらが聞きたい。
「確かに赤ちゃんを捨てたのよ。通りから二本目の道を入って、少し歩いた家の前に」
 そう叫んだら夫が怪訝な顔をした。
「何?」
「もう一度言ってごらん」
 葉子は改めて同じ言葉を告げる。
「赤川さんのお宅は道を曲がってすぐだ。少し歩いたというのは、どのくらいだ」
 初めて違和感に気付いた。
To be continued.

著作:紫草



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