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『風雪』

第7章 香苗

 一人娘の矢谷郁代が、妊娠したからとやってきたのはあの子の家のお隣で事件が起こった一ヶ月後のことだった。
 久しぶりの妊娠だから不安なの、という話に別段変わったところはなく受け入れた。当然だろう。長男の莉玖は高校三年、長女の実玖も高二になっていた。数ヶ月、母親がいなくなろうとも大丈夫だと思った。
 夫に先立たれ、独り暮らしをしている本庄香苗は娘の世話というお役目に、久方ぶりの満足感を覚えた。それは高揚感にも似たものだったかもしれない。
 しかしそれが単純な里帰りではない、と暫くして知ることになる。生さぬ仲の莉玖から、一本の電話がかかってきたのだ――。

 郁代が結婚した相手は夫の知り合いからの紹介だ。警察に勤めているといっても事務方で、お巡りさんとか刑事とかの分野とは全く関係がないという。少し硬い印象はあるものの、根は優しく真面目な男だと聞き、郁代もお付き合いを始めたのだった。当初は婿養子という話だったが、あちらも一人息子だと知り郁代がお嫁に行くと言い出した。
 約束が違うと言いたくても、言っているのが我が娘ではどうにもならない。あちらの親御さんに両家の間になる所に家を建て行き来をしないかと提案され夫は承諾することにしたのだった。

 新婚生活を新築の家で迎えられる。それは誰にでも与えられるものではない。香苗も漸く納得し、娘の幸せを喜ぶようになっていた。あれは妊娠が安定期に入った、お正月も明けてすぐの頃だった。
 一人の赤ん坊が家の前に捨てられていたのだ。それでも、すぐに連絡があったわけではない。その子を養子として引き取るからと連絡をしてきて初めて知らされたのだった。
 そんな馬鹿な話はない。間もなく、初めての子を出産しようとしているのに、赤の他人の子を引き取るなんて。でもどうしても施設に入れることができないと郁代は泣いた。どうしてそんな何の関係もない赤ん坊を気にするのか、単純に自身の出産を控えてナーバスになっているだけだと思っていたのだが、ある日、矢谷の御両親を伴って、みんなで訪ねてきて初めて、これは簡単な話ではないと知ることになった。

 郁代の相手、矢谷莉一は自分自身が正に矢谷家の家の前に捨てられていた子供だったという。子供のいなかった御両親はその子を養子として引き取った。そんな莉一が他人の子だと放り出すことなどできる筈もない。
 何ということだろう。こんなことでもなければ、たぶん一生知らない事実だった。矢谷家の親子にそんな秘密があったなんて誰も気づくことはない。それほどに仲のいい親子に見えたのだ。
 郁代が嫁に行くと言い出したのも、この事情を聞かされたから。婿養子になるとなったら、両親に気付かれてしまうかもしれないと思ったと。それは決して隠すような内容ではない。しかし、どんなことが結婚に弊害を生ずるのか。若かった郁代には分からなかった。

 莉玖に罪はない。それにとても良い子だった。五ヶ月も違わない妹になったが実玖の面倒をよく見て、郁代の手伝いもして、勉強もよくできる子供に育った。
 あの子が中三の冬休み。
 あの時も突然やって来て、実玖が好きで変になってしまうと打ち明けられた。思春期の弱さがそうさせるのだと諭すのは簡単だった。でも莉玖なら受けとめるだろうと、真実を話すよう莉一と郁代に連絡した。

 あの時から香苗は二人の交際に反対の意思を示している。法律の問題ではなく世間体というものがあるからと。すると莉玖ではなく、実の孫の実玖の方が香苗を避けるようになってしまった。何と皮肉なことだろう。
 その実玖が荷物をまとめ、莉玖と学校の友だちに連れられてやってきた。痛々しい包帯姿に郁代共々言葉を失ってしまう。近く実玖を連れて行くから、母さんの出産までそちらに置いて下さい、莉玖からそんな内容の電話があった翌々日のことだった。

 七ヶ月後。
 郁代は無事に女の子を出産し、自宅に戻った。生まれた子は汐莉と名付けられた。ずっと塞ぎ込んでいた実玖も汐莉の笑顔に慰められ、自身も微笑みを取り戻していった。賑やかな暮らしが、また寂しい独り暮らしに逆戻り。
 実玖を連れてきた莉玖は、こちらに来た後家を出て行ったと聞いた。莉一が捜しているようだが、なかなか見つからないらしい。そして郁代たちがいなくなり暫く経った頃、ふらりと莉玖がやってきた。

「何処に行ってたの。お父さんもいろいろ捜しているのよ」
 開口一番、玄関先で詰め寄ってしまった。すると都外で住みこみのパチンコ屋で働いていると言い、郁代の出産はどうだったのか様子を見に来たと。
「今日は休みなんだ」
 手には香苗の好きな和菓子があった。

 居間に上がり、いろいろな話をした。根掘り葉掘り聞こうにも莉玖は口が固すぎる。それでも大事なことだけは教えてくれた。
「お前には負けましたよ。ここに住みなさい。そして勉強して大学に行きなさい」
 香苗は莉玖を見くびっていた。この子は、実玖に火傷を負わせた子を警察に通報するだけでなく、一緒について行ったという。どうしてそんなことをしたのかと漏らした時のことだった。郁代が言ったのだ。
『女の子だから。莉玖は、どんなに酷いことをしたとしても、皐月ちゃんは女の子だからついていってあげたんだと思う』
 そう言った。そしてそのまま姿を消してしまった。いったい、どんな思いで暮らしていたのだろうか。
 どんな通報をしても、すぐに帰ってくるかもしれない。それはお隣の方がそうだったように、そうなればそれが危害を加えることの終わりとは限らない。
 何を考え、何が最善だと判断したのか。それは分からない。莉玖は実玖をどんなに悲しませても、離れるという決断をした。そこには実玖への想いが溢れているのだろう。

 すぐには仕事を辞められないというから、帰ってすぐに手続きをして最短で引っ越してきなさいと言った。
 そして大学に受かること。卒業まで実玖に逢わないこと。学費は貸してあげるから、バイトを探して長く働き続けることを条件にした。
「もし卒業までお前の気持ちが変わらなければ認めてあげますよ。ただし実玖に別の相手ができたらきっぱりと諦めなさい」
 莉玖は、分かったと頷くだけだった。

 この子は、郁代が育てた子だ。
 紛れもなく、香苗の孫だった――。
To be continued.

著作:紫草



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