『指環綺譚』

発 端

 あの夜の寒さは、雪がちらつくほどだった。にもかかわらず家を出て初めて、気持ちが暖かいと感じた夜だった。
 彼女は「おでんのお蔭だ」と笑った。友も同じように云った。
 しかし私には、何か別のものを想像させた。その時は、それが何なのか分からなかった。
 後になって気付いた時には、全てが終わってしまっていた――。

 今から思うと、彼女の祖母は大変出来た人であった。孫の連れてきた名前も明かさぬ小僧を家に上げたばかりか、その先一緒に暮らすことすら、あっさりと承知したのだから。
 しかし、それが間違いの元だった。私など放り出せば良かったのだ。
 否、私ではない。
 遠い昔、息子が連れてきた小娘を受け入れなければ良かったのだ。何故なら、私の語ろうとする『哀しい思い出』の、それが全ての始まりだったのだから――。

「あなた、名前は何ていうの?」
 彼女の声は歯切れがよく、耳によく届いた。小さな卓袱台を挟み、彼女はお茶を入れながら聞いてきた。

「りゅうだ」
 当時、両親と上手くいっていなかった私は、本名を名乗る気になれず、何故か咄嗟にこう云った。
「りゅうか、良い名だね。私は愛≠諱B篠崎愛。宜しく」
 そう云って差し出した彼女の右手は、とても十八とは思えぬほどガサガサに荒れていた。私がそう思ったことに気付いた彼女は、笑いながら「毎日働いてきた勲章」という云い方をした。
「この家で暮らすことのたった一つの条件。お天道様が東の空にあるうちに起きる事」
「分かった」
 こうして私は、彼女達との同居を始めることになった。この先“りゅう”という人間でいる時間が私の至福の時となった――。

 綾辻れん、十九歳。
 夏休みに家出をして以来、漸く根無し草を返上し落ち着くことの出来る自分の居場所を見つけた・・
 と、勝手に酔いしれていた。

 愛は云う。
「これでも一戸建ての二LDK。バストイレ付きよ」
「確かに間違ってはいないな。しっかしな、築五十年の木造で殆ど長屋みたいに隣とくっついてるじゃないか」
 当初私は、まだこんな建物が残っていたのか、と驚いた程その住居は古かった。
 しかし、それも二、三日のことで慣れてしまえば床のきしむ音さえも生活の一部に加わった。近所の人たちも良い人ばかりで、どこの馬の骨とも分からない私を、愛の連れてきた男だというだけで歓迎してくれたし、親切だった。

 私は祖母のことを「おばあ」と呼び“愛”はそのまま呼び捨てにした。そして彼女たちは私のことを、私の云った仮の名のまま『りゅう』と呼んでくれていた。
 日常が楽しいものだということを、皆が思い出させてくれたのだった──。


著作:紫草

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