『指環綺譚』

おでん屋台

 愛の一日は、おでんのだしを作ることから始まる。
 といっても一から作り直すのではなく、前の日の半分を使っての合わせ技だという。だいたい朝九時半から十時頃に起きてきて大きな鍋に水を張り火にかける。当日の分が粗方出来上がると、前日の分と合わせながら味を調えていく。
 流石に毎日見ていると、段取りまで覚えてしまうから不思議なものだ。こんなことなら小さい頃に台所に入ってみれば良かった。料理というものがこんなに面白いとは、それまでの私はまるで気付きもしなかった。

 最初のうちは皿洗い専門だった私も、やがて箸休めを作るようになっていった。
 しかし、愛を目当てにやって来る多くの若い客には決して本当のことは云わず、あくまでも愛の手作りと嘯いた。
 始めこそ「この男は誰だ」と云われたが、それも愛の人柄なのであろう、その内に愛が雇ったのだから「仕方がないな」と納得されてしまった。愛も皆の気持ちを察し、私を決して屋台に入れようとはしなかったし、自身それがいいと思っていた。

 TVも新聞もない生活は、当時の私には最高に気楽だった。時折、客の置いていく新聞や雑誌を見ると世の中の傍観者にでもなった気分で、小さなことで悩むのが莫迦らしくなっていった。


著作:紫草

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