『指環綺譚』

最 后

 私が愛と暮らし始めた頃、彼女はいつも云っていた。
「いつかね、お母さんになるのが夢なの。でね、かあちゃんって呼んでもらうんだぁ」

 今から思えば、何故彼女はこんな話を逢ったばかりの私にしたのだろう。確かに初めて逢った時から、何か他の人とは違う特別な気持ちがあった。ただ、その時は単に一目惚れしたんだと思っていた。
 しかし、それは私の気持ちであって愛の気持ちがどうであったか、私は何一つ聞いていない。
 男と女の出逢いが何時もドラマチックとは限らない。が、少なくとも私と愛は、かなり劇的にそのスタートを切った。
 愛は十八、私は十九。一般的にいえば充分若すぎる二人の本当の意味の生活は、出逢いから六ヶ月、即ち同居をするようになってから六ヵ月後に始まったのである。

 今も忘れない。
 ──甘く切ない、あの夜。天の川を挟んだ牽牛と織姫の一年にたった一度の逢瀬が叶う七夕の節句。満天の星空の下、私たちは結ばれた。ままごとの様な、と云われてもいい。この家族の倖せを決して壊したくはなかった。
 更に、この日、愛に宿った私たちの子を何ものにも変え難い宝物として慈しんだ。愛は念願の母となり、私も真実の家族愛を手に入れた──筈だった。
 翌月二日、私は二十歳を迎え、同じ二十五日、愛は十九になった。
 愛のお腹が次第にふくらみを増し、おばあが腹帯を巻いた日に、私は真実を二人に告げた。本当の名と何故家を出たのか、を。
 愛も、おばあも、
「今のりゅうが居てくれたら、私たちはそれでいい」
 と云ってくれた。

 私は一つのけじめとして、家に愛を連れて行くことにした。綾辻の家は、弟が跡を継げばいい。私は全ての権利を放棄して愛と一緒になる心算だった。
 十二月、愛のお腹の子は七ヶ月を迎えて順調に育っていた。その日、愛は母の形代のようなあのリングを指にはめ、私たちは綾辻の家へと出掛けて行った。
 いつもは人の事を非難することしかしない父が、珍しく愛に言葉をかけた。
「美味しいものを一杯食べて、元気な子を産みなさい」
 と。私が愛を見ると、泪が頬を伝って流れた。あの時、母はどんな顔をしていただろうか‥。父に許してもらったことが嬉しくて、少し浮かれてしまった私は、母の表情を憶えていない。
 愛も父からの思いがけない言葉で気持ちがほぐれ、いつもの愛らしい朗らかな笑みを浮かべていた。

 私たちは、まさに天にも昇る気持ちで新年を迎え「次の大安に婚姻届を提出しよう」と決めた。おばあの病気も落ち着いていて、
「こんなに倖せでいいのかなぁ〜」
 と愛は毎日のように云っていた。
「やっと順番が廻ってきたんだよ」
 と、私はその都度答えていた。
 外は凍てつくような寒さだったが、家の中は春爛漫の暖かさが連日続いていたのだった。
 しかし、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。

 やがて悪魔の待ち望む、運命の日が訪れたのだ───。


著作:紫草

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