V
凪の大きな声に、家の奥から女性が一人現れた。若い。高校生かもしれないくらいの若い子に見える。
沙柚は、彼女の許に駆け寄ると小さな声で話をし、彼女は家の中へと戻っていった。
「この少し先にカフェがあるから、そこで待ってて。ペンギンのマークがあるから分かる筈」
沙柚は腕を真っ直ぐ伸ばして示すと、そう言った。
「用事ができると困るだろ。携帯の番号、教えて欲しい」
そう言って携帯を出すと、沙柚は首を横に振った。
「凪は変わってないんでしょ。だったら分かるからいい。凪に用事ができたら、そのまま帰って」
たぶん、そう言われるだろうことを、そのまま返された。
確かに、沙柚と別れた後も番号は変えていない。
でも沙柚は変えただろ。
しかし、その言葉は出なかった。
沙柚はベビーカーを持ち上げると、家の奥の方へと消えてしまったから。
凪は仕方なく、沙柚の指した方向へと歩き出した。
程なくして、それらしいカフェが見つかった。ペンギンズカフェ。この北の地方には垢抜けたオシャレなカフェだった。
中に入ると他に客はなく、女性の店主らしい人が好きな場所に座ってくれと言う。凪は外の見える四人掛けの席についた。
水を運んできてくれた店主に珈琲を頼むと、沙柚が来るであろう方向を見続けていた――。
もう現れないかもしれないな、と思った。
珈琲は三杯目を空にしていた。
「お勘定、お願いします」
凪は、料金を払って外へ出た。
そこに、沙柚の姿は見えなかった。
W
駅に向かう凪の背中は、常に沙柚の視線を意識していた。
しかし懐かしいとも呼べる感覚は、いつまで経っても襲ってこない。
やはり、結婚したのだろうか。
脳裏を過ぎるのは、その言葉ばかりだった。
あの時、出てきた女性は誰だったのか。
凪は自分がつくづく嫌になった。
突然、目の前から沙柚がいなくなった、あの時と何も変わってはいない。
何ひとつ聞くことなく、連絡先ひとつ教えてもらうことなく、この北の街を後にする。もう訪れることはないかもしれない。
新幹線の時間は迫っていた。
何故、あの時、この時間に帰ると、新幹線の時間を告げなかったのか。
否、それよりキャンセルして、この街に留まるべきか。
いろいろ考えるものの、たった一つの事実が凪の行動を支配した。あの時、沙柚は言ったのだ。
自分からは連絡ができると。
つまり、それは連絡する気がないということだ。
凪は、予定通りの新幹線に乗る為に駅へ行くことを選択した。
新幹線のホームに立つ。
在来線と余り変わらない、和やかな空気が流れている。
これが北の街独特のものなのか。それとも沙柚がいると分かった街だからだろうか。
凪はふと、土産を買ってこいと言われていたことを思い出し、売店に足を向けた。
適当に見繕い、紙袋を提げたところで改札を抜けてきた沙柚の姿を、はっきりと捉えた――。
X
沙柚。
言葉にならない彼女の名前を呼んだ。
「凪。ごめんなさい」
息を切らしている彼女の言葉は、なかなか続かなかった。
彼女の言葉を待っていると、新幹線が入ってきた。
新幹線を遅らそう。そう思って告げようとすると、沙柚は再びあの笑顔を見せた。
そして、少しだけ背伸びをして、微かに触れるキスをした――。
「お元気で」
沙柚はそう言うと、凪の体を車体の扉に押し込んだ。
振り返ると、そこには泣きながら立っている沙柚の姿が在った。
「会いたいよ、また。どんな形でもいいから。沙柚を手離したくない」
そう言った凪の言葉に、沙柚は首を横に振った。そうしているうちに扉は閉まる。
「沙柚」
ほんの少し触れた彼女の唇の感触が残っていた。
その唇で、彼女の名を呼んだ。
「待ってる。いつまでも」
聞こえないかもしれない。
それでも叫ばずにはいられなかった。
「連絡して」
いつか、もう一度逢いたいと思ってくれる日がくることを。
ただ待っている。
その時、携帯にメールが届く。
沙柚からだった。
―私、結婚はしてないよ。
―ベビーシッターの仕事をしてる。さっき会った彼女が赤ちゃんのママ。
―もしも、また何処かで偶然出逢ったら、今度こそゆっくりお話しようね。
電話番号は書いてない。
でも返信したメールは、確かに届いた。
凪の沙柚を待つ人生の旅は、今、始まったばかりだ。そして、それは永遠に終わることはないだろう――。
席につき、自らの唇に触れる。
沙柚のキスは、以前と変わらず愛おしいままだった。香水を使わなかった沙柚の、彼女独特の残り香が凪を夢の世界へと導いた。
【了】