昭和二十年。
大本営の発表信じ、当時を生きた多くの者たち。
日本が勝つ為にと大事な家族を戦地へ送り出した者たち。
やがて戦局は怪しくなり、そして帰ってこなかった者たち。
日本独特の四季という、季節は巡る。
散る桜を愛で、欠ける月を愛で、融ける雪に次の春を思い、そして稔りを待つ。
あの夏。
戦地で戦う者たちも、何処かで見ていたのだろうか。
この黄色い向日葵は誰の手を借りることなく、大輪の花を咲かせ魅せた――。
新潟県某村。
男は兵役を免除され、地主でありながら家族は肩身の狭い思いをして暮らしていた。
それでも縁故疎開の増えた村に、地主の貯えは欠かせないものであった。陰でどんな悪口を言っていたとしても、疎開してきた者に倉から米や野菜を出してくれる。
ちょうど季節は稔りに向かい、夏野菜は日々の収穫を待っていた。
八月一日。
日本時間午後十時三十分から翌八月二日午前〇時十分、アメリカ軍からの長岡への空襲がこの村の様相を一変させた。
それまで地主が行っていた出兵への儀式を、中止したのだ。
村人は怒り、地主を責めた。
お國の為に兵隊に行く者を、何故祝ってくれないのかと。
しかしどんなに詰め寄る村人にも彼は耳を貸さなかったし、理由を聞かれても答えることはなかった。
村の外れにある空き地に、向日葵が満開になった頃。
玉音放送を聴くために、久方振りに村人が地主の家に集まった。聞こえよがしの皮肉は当然家族の耳にも届いてくる。肩身の狭い家族は一緒の部屋に入ることを躊躇った。
そのラジオ放送は雑音の方が大きく、殆んどの者には陛下のお声は届かなかった。それでも平伏しアナウンサーの繰り返した敗戦の二文字だけが頭に残った。
『戦争が終わった』
陛下の言葉に涙した者は次の瞬間、皆が帰ってくると喜びあった。
疎開していた子供たちも親元へ帰れると泣き、これまでの暴言を忘れたかのように地主に握手を求める者すらいた。
しかし、この平和な村にとって本当の戦争はここから始まるのである。
食料難に陥った日本は、配給という名で食糧を制限し、多くの場所にジープに乗るアメリカ兵の姿を見ることとなる。
満開の向日葵は種を作り、来年を待つかのように散り始めた。
終戦。
ただ幾ら待っても兵隊に取られた者たちが、帰ってこない事実に漸く村人は違和感を覚えるようになった。
「どうして誰も帰ってこねだろか」
そして真実が、この遠い田舎にも届いたのである。
大本営の発表は間違いであり、戦死者の全てを把握することはできない。遠方へ行った者に関しては、ご遺体という形で帰ることもないだろうと――。
夫は帰らない。
父は帰らない。
兄も帰らない。
やがて米や野菜を求めて、都会から多くの者たちが物々交換にと村を訪れるようになった。
困っているのならと、上等だという衣装と米を交換しようとしていた村人に地主が声をかける。
『その着物を、いつ着るかね』
育ち盛りの子供が八人と、縁故疎開の子が四人もいる家族だった。
『これから米や野菜を分けてくれという都会の者さ来たら、家に来るように言え』
地主は多くは語らなかった。
でも村人は悟るのだ。これから、こういう者はわんさとやって来るのだと。
今のように、涙ながらに頼まれたらきっと分けてしまうだろう。
だから地主は冷たく言ったのだ。
この村で生きる者を守る為に、一人嫌われ者になって。
胸の病気で赤紙がくることのなかった地主。彼はその代わり、三人の息子を取られ戦死した。
田舎の小さな村は、この地主のお蔭で秋の収穫も無事に終え、田畑泥棒に遭うこともなく秋の豊年祭りを行うと知らせがあった。
まだ多くの男たちは取られたままだ。そんな家にとって戦争は今尚続いている。
豊作を無礼講で楽しみ、また来年同じように田畑に花や稔りが訪れることを神に祈念しようではないか。
そこで振舞われた神への祭壇は小さく、貢ぎも小さな野菜が乗るだけである。
村の御大が聞く。
『こんなちいせえ野菜で、神様は来年も豊作にしてくれるかの』
その言葉を受け、地主は言うのだった。
『生きている者がいなければ、誰が田畑を耕し育て収穫する。大丈夫だ。きっと分かって下さる』
生きる。
命というものの大きさを改めて知る村人であり、冬の貯えのない者には地主が倉を開ける。
長岡の空襲で敗戦を悟った地主が大盤振る舞いをやめた本当の理由に、この時村人は初めて触れたのである――。
翌年。
半数の男たちは帰ってきた。
しかし行方知れずの者も多い。
戦死の公報が入った者も大勢いた。
そんな中、やはり向日葵は子供たちの歓声を受けながら大輪の花を咲かせていたのだった。
【了】