こんな筈ではなかった。
誰もが陥る、気持ちの狭間に見事に落ちた。
そして時が経てば立ち直るだけの、強さを持ち合わせてはいなかった――。
『精神的なものですね。安定剤を出しておきましょう』
医師は診療内科医だった。
何が精神的なものよ。
そんなこと分かってるわよ。
でもね、先生。
私は新入生でも、新入社員でもなく、今月がどんなに五月であっても五月病にかかるような立場にないのよ。
そんな私が眠れなくなったのはもう三ヶ月も前の話で、大きな病院に行くのも怖かった私は母親に引きずられるように、この心療内科の扉を叩いたんじゃないの。
それが精神的なものですって?
先月、初めて来た時は、
『神経性胃炎ですね』
って言ってなかった?
その薬で胃炎は治ったかですって。
最初から胃が悪いなんて言ってないでしょ。
ちょっと痩せたかもって言っただけじゃない。
今度は精神安定剤ですって。
これで二週間後、躁鬱病ですって言われたら笑っちゃうわ。
そんなの分かってることだもの。
先生は気付いてないけれど、私は半袖の服を着ることができない。
だって私の両の手首には、無数の傷が残っているから。
それを聞いてくれるだけでよかったのに。
そしたらバッグから、あの凶器を取り出してそれで終わると思ったのに。
次は何かしら。
医師って結構馬鹿よね。
医学書にないものは認めたくないみたい。
きっと取り扱い説明書に、この大人の扱い方って書いてあるのよね。それで番号がついた処方が書いてあって、それをひとつずつ試してゆくんだわ。
でも、それがいつまで続くのか、私には分からない。
母はお金を精算しながら、私を振り返る。
憐れみを浮かべた瞳は、私を奈落の底へと突き落とす。
もう疲れてしまった。
帰ったら、何をしよう。
そうだ。
せめて五月病の振りをして、引き篭もりの真似事でもしてみよう。そして、またアレを出す。
赤く引く一本の線。
ぷくりと溢れてくる赤い玉。
ほんの少しだけ強く引くと、綺麗な玉ではなくなってしまう。それは醜いから嫌いなの。
死にたいと思ったことはないわ。
ただ、赤い玉を見たいだけ…
ぷくぷくと、膨らんでくる赤い玉。
いつか、本当にその時がきたら、ちゃんと誰かに告白するの。私には、この赤い玉がなければ生きてこられなかったということを――。
人は嫌い。
嘘をつくから。
人は嫌い。
騙すから。
人は嫌い。
同じ意見を求めるから。
人は嫌い。
勝手に、人を馬鹿だと決め付けるから。
私は人間という種族のなかで、生き残ることを放棄した落ちこぼれ。
這い上がることを放棄した、出来損ない。
そして、いついなくなってしまっても誰も気付くことはないでしょう。
【了】