『心の内』

 急に寒さの増した朝だった。
 別墅(べっしょ)亮一朗は、妹である凪の病室の前で入るのを躊躇っていた。
 凪の口から、柊木蒼という名を聞いたことはない。ただ毎週通っていた海岸に、誰か来ていないか見てきてくれと言われただけだ。

 不思議に思いながらも、あの海岸に行った。凪はいつも決まって三十分、此処に居た。だから人影が途絶えた後も暫く待った。
 すると一人のサラリーマン風の男が走って海岸に下りていった。
 そして凪がよく座っていた流木に、同じように腰をかけそのまま海を見ていた。まるで凪がそこにいるように、彼の後姿は寂しく見えた。
 それから毎週、彼は現れた。
 凪にそれを伝えると、何の返事もない代わりに彼女の機嫌がよくなるのが分かった。

 彼奴は誰だろう――。

 亮一朗はいつの間にか、自分自身がこの名も知らぬ男が現れて欲しいと思うようになっていた。
 そして凪には声をかけるなと言われていたのに、つい声をかけてしまった。
 柊木蒼。
 彼は、凪と会ったのは一度だけだと言った。そんな男の何を凪は気に入ったのだろうか。

 昨日の夜。
 彼、柊木蒼を連れてきた時。自分は一緒にはこなかった。
 だから彼がどう言って凪に部屋に入れてもらったのか、亮一朗は知らない。
 短い時間だったろう、久しぶりに会った二人にとっては。彼は、三十分もしないうちに車に戻ってきたのだから。

「凪」
 ベッドには目隠しになるカーテンがあって、話をする心算はないという時はそれが閉まっている。
 しかし今日はカーテンどころか、彼女はベッドではなくソファにいて、テーブルにはオレンジや紫、黒といった色の様々な形をしたものが箱にいれてあった。
「これ、何」
 無意識にそう聞いていた。
「子供たちの病棟のね、プレイルームをハロウィン仕様に飾るの。そのお手伝い」
 珍しく彼女も、その手を動かしながら答えた。

 ハロウィン。
 そうか。もう十月か。
 小児病棟は感染を防ぐ為、外からは完全に隔離されている。だから少し動くことができる子供たちはプレイルームで本を読んだり、ビデオを見たりして遊ぶのだ。
 院内学級に通う子を除くので、昼間は比較的小さな子供たちが集まる。
 凪も、中学まではそこにいた。

「これは?」
 亮一朗は、箱の中から一つの紙を取ると聞いた。
「猫」
 え? これが猫? とは口が裂けても言えないが、どう見てもドブネズミがせいぜいだろう。そういえば凪は不器用だったな。
 亮一朗が凪の隣に座り、テーブルに置いてあった鋏で、そのドブネズミを黒猫に変身させた。
 その瞬間、凪の瞳がキラキラと輝いた… と思った。
「お兄ちゃん、これ作って。お願い」
「この色紙、全部?」
「そう。私は、こっちの型ぬきで作るから」
 やられた。
 じっと見つめられて、妹とはいえどきっとする。
「分かったよ」

 亮一朗は鋏を器用に動かしながら、柊木蒼のことを聞くタイミングを失ったことを悟った。
 その後、二人は黙々と色紙を切り続け、飲み物でも買ってくるよと席を立った。
 その時、凪が言う。
「冷蔵庫に珈琲が入ってるよ」
「じゃ、もらおう」
 ソファを離れ、凪に完全に背を向けた時、彼女が言った。
「昨日のことを聞きに来たんでしょ。どうして聞かないの」

 不意打ちだ。またしても、やられた。
 何の言葉も用意ができてない。こうなれば、簡潔に聞くだけだ。
「あいつ、誰」
 振り返りながら、そう聞き凪を見た。

「いつ死んでもいいと思っていたのに、あの人の瞳を見た時、生きていたいと思ったの」

 それだけ…
 いや、凪にとっては生きるということを選択させた男。それだけでも凄いことだ。
「彼はお前の名前も知らなかったぞ。たった一度会っただけで、凪の人生を変えた男か」
 凪は少しだけ微笑んで、それでいいと言った。
 もう海へ行くこともなくなるだろう。
 凪のことが分かったのなら、その必要がないことも知った筈だ。

 彼の近くの病院というのは緩和医療の病棟を持っていて、凪の体が限界だと判断されたら入院する予定だった。病院内独立型のホスピスとでも言うのだろうか。
 それを突然翻し、治験を受けると言い出した。
 思えば、あのびしょ濡れで帰ってきた、あの嵐の夜に柊木に出会ったということか。

「はい。これ小児病棟に届けてきて」
 小悪魔のような笑顔を浮かべ、凪にハロウィンを飾る色紙を押し付けられ、亮一朗は病室から追い出された。

 何かが、確かに凪の中で変わったのだ。
 亮一朗は、思わず笑ってしまっていた。それが不思議なくらい、幸せな気持ちに浸っている自分自身に驚きながら、小児病棟へと足を向けた――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 11月分小題【ハロウィン】

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