都会の街。
誰も待つ人のいない部屋。
そんな暮らしのなかで、時折、すごく後姿の綺麗な人を見かけるようになった。
姿勢のいい背中。肩に落ちるストレートの黒髪。いつも持っている少し大きめのバッグは、彼女の体を更に小さく見せていた――。
空気がひんやりとしてきた晩秋。
昼間の日差しを忘れたかのように、夜は冷気をまとっている。
その日も真っ暗な部屋への道を、真っ直ぐに帰る気にはならず、一本東側の道を歩いた。
もしかしたら、また彼女の後姿に会えるかもしれないと思って…… 否、違うな。
俺は彼女自身に逢いたいと、心のどこかで思っていた。
いつしか見慣れた表通りに、新しく店舗が入るようだった。夜の遅い時間にもかかわらず、少し離れた場所からも灯りが漏れているのが分かる。近づいて硝子の向こうを見るとはなしに覗いてみた。
!
そこには大きな脚立の上で、天井に向かい何か作業をしてるくだんの彼女の姿が在った。
思わず足を止めた。そして見入る。
あんな細っこい体で、あんなに小さいのに、そこにいる誰よりも高い場所で働いていた。
間違う筈がなかった。あの後姿と、部屋の隅に置かれた見覚えのあるバッグ。長めの筒は製図か何かが入っているんだろうな。
「何か御用ですか」
余りに長い間、見ていたからだろう。部屋にいた一人の女性に、声をかけられた。
ちょっと狼狽え、何でもないとその場を去る。
見られただろうか。見ていたのは彼女の後姿で、顔は見ていない。
誰が気付いたのだろう。外に出てきた女性だろうか。
「参ったな」
自分で思っているよりも、どうやらずっと彼女に恋をしてしまっているらしい。マンションの一階に入っているコンビニで軽くつまみを買ってエレベーターを上がる。
もう彼女に遇うことはないだろう。
あの店の内装工事に来ていたのなら、仕事が終わればこの街から消える人だ。
そろそろ三十路に手の届くと言う年になって、こんな初心な恋をすることになるとは思わなかった。
今夜、何だかとても寂しい……
それから暫くして、あの店がオープンした。洋服屋か何かかと思っていたら、オープンカフェのある喫茶店だった。
彼女がつけていたのは、小ぶりな照明だったと今なら分かる。
いつしか、その照明が見える席が俺の指定席になった。
落ち着いた雰囲気は女性だけでなく、男性や年配の人にも人気があるようで曜日時間問わず人が溢れている。
仕事が早目に終わると、その店に寄るのが俺の日課になった。そして季節は巡る――。
「あの」
いつもの席で珈琲を飲んでいると、声をかけられた。
何だろうと思って、ただ振り向いてみた。
「あ……」
「ここ、いいですか」
そう言うと、俺が返事をする前に目の前に座っていた。
ウェイターの注文に、やはり珈琲を頼んでいる。
「私もこの席、好きなんです。いつも、ここで珈琲飲んでいらっしゃいますよね」
運ばれた珈琲に、コーヒーシュガーを入れスプーンでくるくる溶かしながら、視線が絡んだ。
「ここの工事してた夜、見てた人ですよね」
鼓動は大きく跳ね上がり、心臓が飛び出すかと思った。
知ってたんだ……
かける言葉も見つからないまま、視線だけが彼女を追い続けた。
いつも持っていたあのバッグから、小さな手帳を取り出して数枚の写真を取り出した。
そこには何と、俺の姿が写っている。
「ごめんなさい。私、かっこいい人がいると隠し撮りしちゃうんです。でも、こんなに沢山撮ったのは貴男だけです」
差し上げます、と写真を揃えて置かれた。
「あの」
「何でしょう」
「どうせなら、君の写真をもらえないかな――」
お互いが与り知らぬところで恋をした。
粋な計らいをする神さまが、少しだけ二人の距離を縮めてくれて、そして今、互いの家を訪問するたび、ほんの少しだけ寄り道をする。
あの出逢いの喫茶店から、これから行くよと相手にメールを送るために。
【終わり】