折角、四輪駆動を買ったのだからと、滅多に来ることのない山へと向かった――。
車で行ける所まで行き、そこからは徒歩。暫く登ったところで、結衣が此処がいいと河原に足を止めた。
山間にはあるものの、山奥という場所は目前だ。
どうせなら、もう少し行った方が景色もよさそうな気がするが、そんなことは考えていないらしい。持ってきたレジャーシートを広げ始めている。
――ま、いっか。
俺も持ってきたバスケットを、そこに置く。
山の中にありながら、直前のこの場所は確かにいい処なのかもしれない。流れる川も大きいものではなく、もう少し源流に近づけば危ない場所になるのかな。
昼下がり。
陽射しは木々の間から穏やかに差しこみ、流れる水の音は眠気を誘う。いつしか夢うつつの中にいた俺の、胸の上に違和感を覚えた。
――あれ。結衣の腕じゃない。何か、別のもの?
眠気と闘いながらも片目をうっすらと開けると、結衣が耳元で囁いた。
『動かないで。獣も、峻ちゃんの雰囲気に警戒心を解いたみたい』
一瞬、何を言われたのか判断に困る。
しかし自分の上に栗鼠の姿を認めた刹那、結衣の言葉を理解した。
――野生の獣が、人に近づいてくるものか。
結衣は俺のせいみたいに言ったけれど、きっと違う。
コイツは結衣に惹かれて出てきたんだ。そして結衣の腕が乗る俺の胸に、自らも足を伸ばしたのだろう。
暫く二人と一匹で微睡んでいた……。
『もう、山にお帰り』
そう言った結衣の厳しい言葉に従うように、獣が俺から離れていった。
「いいのか」
『うん。人は警戒しなくちゃいけないものだから、ちゃんと帰さないとね』
山は近づき過ぎてはならない。それは海も同じだろうと彼女は言う。確かにそうだ。
自然は突如、牙を剥く。
アイツの去った方を目で追った。そして流れる川の源流を求めるように、頂上を見上げる。
すると、どこからともなく薫風が吹いてきた――。
車に戻り、走り出す。
山の神様が、粋な計らいをしてくれたのかもな。
そんなことを言ってみたが、返事はない。
ちらりと横目で助手席を見ると、結衣はすでに夢の中だった。
【了】