倖月渉が、五嶋希未と出逢ったのは、長らく入院していた病院の中庭に出た時だった――。
あれは、まだ暑い日差しの残る初秋。
もう何度目になるか、忘れてしまうほどの回数を重ねた手術が決まろうとしていた。検査の結果がはっきりしないから、という理由で再検査の為の採血をされ、手術日程を組むと言われたところで診察室を逃げ出した。
昼前の中庭には、人影も疎らだった。
木陰こそ風の涼しさを感じるものの、日差しを遮るものがない中央は燦々と陽がふりそそいでいたから。
体力的に、炎天下に出る勇気はなかった。渉は、大きな木の下にある、ベンチのひとつに腰を下ろした。
暫く、その場で夏の名残を感じる風を感じていた。
すると、一人の女の子が…… 否、女性が歩いてきた。
「大人だよな」
思わず、小さく呟いた。
彼女は真っ白いワンピースに、ピンクのサンダル。そして手にはボロボロの人形を持っていた。
ゆっくりゆっくり近づいてきた彼女を見て、少し様子がおかしいことに気付く。
そうなると渉の目は彼女から離れない。頭ではいけないと分かっていても、彼女の一挙手一投足、その全てを目で追った。
彼女が渉のいるベンチを通りすぎようとした時、少し後ろを歩いていた女性が声をかけてきた。
「彼女の名前は、五嶋希未。もしよかったら、のんちゃんって声をかけてあげて下さい」
返事の必要はなかった。
振り返った時、二人は渉の座るベンチから離れ始めていた。
翌日。渉は同じ場所に向かった。同じ時間に希未と言われた彼女も現れた。
「あの、彼女のお母さんですか?」
渉は後ろを歩く、声をかけてきた女性に聞いた。
「いいえ。私は付き添いです。希未さんのご両親は、すでに亡くなっています」
それ以上は聞くことができなかった。
生まれてから二十年以上、死と隣り合わせの生活だった。自分自身が命の短さを実感してはいても、親が死ぬなんて考えたこともなかった。
このあどけない希未は、親のいない世界で生きてきたというのだろうか。
「失礼します。また明日、雨が降らないことを望みます」
付き添いと言った女性は、そう言って前日同様希未と共に離れていった。
いけないことだろうけれど、渉は希未の主治医に話を聞きに行った。
勿論、守秘義務は厳然たる事実として立ちはだかる。
しかし命の灯火が消えようとしていた渉には、彼自身を生かす意味もあり、双方の主治医の管理下で問題なしと判断されたことを教えてもらえた。
翌日から渉は、中庭へ行くようになった。
最初は希未のためと思っていたのに、いつしか自分自身のための、まるで逢瀬のような時間になっていった。
彼女が渉に気付くことはないだろう、と医師に言われていた。それでもよかった。
しかし、ある日、希未は渉の座るベンチの脇に立ち止ったのだ。
驚いたのは渉だけではなかった。
付き添いの女性も、ひどく驚いていた。
そして数日後、座らないかと誘った言葉に希未は反応するかのようにベンチに座った。
その時、渉のなかで希未の存在が何か別のものになったのだろう。どこか儚く見える希未の中に、強いものを感じた。彼女は決して脆くはなかった。
渉の方が、余程弱かった。体力的にも精神的にも。
ただ、それと同時に、このまま希未のそばにいてもいいのかとも思った。
もしも、希未が渉を理解するようなことになったとして、もしもその後、渉が死ぬようなことになったら……。
渉は、その気持ちを素直に両親と医師に告げた。
迷うくらいなら、とっとと結論を出してしまえばいい。離れるなら、一秒でも早く離れる。遭遇するのも嫌だと思えば、転院すればいいのだから。
しかし医師の判断は、『今のままで』
両親も、希未の関係者も、彼女の変化を受け入れようと言ってくれた。
希未のいない場での決断ではあった。それでも、みんなが彼女のことを気遣っていた。
迷うことは悪いことじゃない。
いつだって迷いながら道を探していけばいい。
渉は、ずっと固辞してきた手術を受けることに決めた。いつまでも、希未の近くにいてやりたいと思ったから。
そして生まれて初めて、本気で生きたいと思ったから――。
季節は巡る。
希未は今日も、ベンチへとやって来る。まだ車椅子での移動しかできない渉を、今は希未の方が待っている。
「わたるくん」
その人は、いつも朗らかに微笑んでいた。
【終わり】