早朝。
穂坂桃里は眩しくて目が覚めた。一瞬、自分が何処にいるのか分からず寝ぼけ眼で当たりを見渡してしまう。
その眩しさにまず窓側に目を向けると、小さな植木鉢が置いてあった。紫の桔梗の花が、一輪蕾んでいる。
更に部屋を見ていくと、女の子が眠っている。刹那、昨夜のことが蘇ってきた。原嶋舞夏、随分幼く見える大人の女性だった。
よく泊めてくれたよな。
もともと不規則な時間にアパートに居る子ではあった。でも、まさか午前様で帰宅するとは思わなかった。
少しストーカーっぽくなった客を遠ざける為にオーナーが帰れと言ってくれたものの、いざ帰ってみたらセカンドバッグに鍵が入ってなくて思わず玄関前で中味をひっくり返す羽目になった。
後から思えば、盗まれてた。
侵入したのはあの客だと思う。桃里がこのアパートに住んでいるのを知る偶然が、つい先ごろあったからだ。
季節外れのインフルエンザに罹患した桃里は、近所の医院で処方された薬を薬局に買いに行った。そこにあの女が白衣姿で立っていた。
余計な話は一切していない。それでも住所や本名は分かるだろう。
月に一度の来店が、その翌日から毎週末になり二ヶ月が経つ。客からプレゼントを渡されるのは珍しくはない。ただ受け取ることができないものもある。そういう時はオーナーが間に入って断るのだが、彼女が高級洋菓子と一緒に持ってきたのは婚姻届だった。
暫くしたら目覚まし時計が昔ながらの音を鳴らし始め、もそもそと動き出す彼女の姿を眺めていた。
思わず、可愛いと叫びそうになる。
桃里とは違い彼女は寝ぼけることなく、すぐさまお早うと声をかけてくる。
「おはよう。昨日はありがとね」
女の一人暮らしを回避するアイテムとして男性物の下着を干しておくという時代もあった。その時のものだと洗濯だけされた着替えを出してくれた。そして桃里がシャワーを借りている間に、冬用の掛布団にバスタオルをかけて寝たらいいと敷いてくれた。
襲われるとか泥棒されるとか、もっと酷いと殺されるとか考えなくていいのかと聞いてみた。
何かあったら自分に人を見る目がなかったってことですね、と言って笑う。そして明日はゴミの日で早起きをするから寝ると言い、本当に午前二時には夢のなかだった。
素直なんだろうな。
ただそれだけじゃない。どこか達観しているような雰囲気を持っている。それは見た目とか年齢じゃなく、過ごしてきた人生が苛酷だったからだろうか。
こんな早朝に起きたのは久しぶりだ。
一宿一飯の恩義ともいう。コンビニで朝御飯でも買ってこようと支度をしていると、彼女がゴミを出し終えて戻ってきた。
「しっ!」
口を開こうとしたら、舞夏の掌が口元を覆う。
「穂坂さんの部屋の前に、女の人が座り込んでます」
舞夏の潜めた言葉でも、その内容ははっきりと理解した。
冗談だろ…
その姿形から件の女だと推察できるものの、いつまでも舞夏の部屋に居座るわけにもいかない。
誰かを呼んで連れて行ってもらうことはできるが、そうなると此処がバレる。セキュリティなんてついてないし、誰でも入ってこられるから今以上に困ることになる。昨夜からこんなことの連続だ。
「うちに隠れてていいですよ。私は仕事に行きますが、どうせ盗まれるようなものなんてないですから」
「いや、それは不味いよ。出ていくから」
「あの人。避けたいから昨日匿ってって言ったんでしょ」
少しだけ驚いた。
確かにそう言ったね。
「これ、名刺。オーナーに電話するから、夕方までには何とかする。今夜も遅いのかな」
「居酒屋のシフトに変更がなければ、昨日と同じです」
「分かった。その頃になったらまた来るよ」
舞夏はあっさりとスペアキーを出した。
「大家さんって誰だか知ってますか」
「え?」
知らなければいい、と言う。
「あのさ。舞夏って無防備すぎだよ」
自分のことだけ考えれば今の申し出は有難いし、悪さをするつもりもないからいいんだけれど。
でも何か、ちょっと癪に障る。
「じゃ、鍵要りませんか。ずっと引き篭もっててもいいですけれどね。ただ戸締りしないで出ていくのだけは勘弁して下さい」
そういう意味じゃない、と思わず大きな声を出しそうになり、また舞夏に口を覆われた。
そうだ。外にはあの客がいるんだった。素直に謝り鍵を預かる。
もう、いいや。
それから二時間程して舞夏は仕事に出かけて行き、桃里は午後になるのを待ってオーナーに連絡を取った。台所の小窓から外を確認すると女の去る気配はなかった。
店の誰かが来ると覚悟をしていたが、やって来たのはオーナー本人のようだ。先に、絶対に出てくるなと言われていたので聞き耳だけ立てておく。
最初、女の声は小さくて聞き取れなかった。しかし興奮し始めたのか、声が次第に大きくなり帰らないと叫ぶように言うのが聞こえてきた。
一時間くらい話していたろうか。
オーナーが警察に通報すると言って、漸く引き上げる気になったようだ。
暫くして携帯が鳴る。オーナーから今日は店を休むようにと言われた。あの客は出入り禁止にしたと言うものの、とっととマンションに引っ越せと叱られた。
分かってる。
でも此処を離れたくはなかった。子供の頃、夜逃げしてきた両親と住んだのがこのアパートだ。
母が出ていって父子家庭になった。金に困りホストになった後も、ずっと住んでた。いつか母が帰ってくるような気がして。
部屋の鍵はオーナーが取り返してくれたが、業者に連絡して替えてもらった。
大家を知っているかと聞いた舞夏。
「大家はね、俺だよ」
舞夏の部屋を出る時に、聞くことのない答えを残してきた――。
深夜。
舞夏が帰ってきた。桃里は約束通り、彼女の部屋を訪ねる。
「おかえり」
と桃里。
「ただいま」
と舞夏。
玄関先に立つ桃里が言う言葉としては不適切でも、何となく言いたかった。付き合ってくれる彼女は頭も切れる。
「大家に鍵を替えてもらった。今度、アパート全部の鍵を替えてもらうことになったよ」
言いながら預かった鍵を渡す。
「ドアノブが替わったのは、壊したからじゃなかったんですね」
その言葉に思わず笑ってしまう。昨夜、ドアを壊せと言われたんだっけ。
「暫くしたら都心のマンションに引っ越すよ。それまではまたあの女が来るかもしれないけれど無視してくれ」
彼女はすぐには何も言わず、黙って顔を見つめられる。そして少し瞼を閉じ、次に顔を上げた時には視線を外され、分かりましたとだけ告げられた。
「今夜は俺が奢る。このまま出られる?」
帰宅したままの姿で立っているのだ。たぶん大丈夫だろうと思った。しかし……
「その必要はありません。おやすみなさい」
目の前でドアを閉められて、初めて女に振られたことを悟った。
やられた。まさか、断られるなんて。
昨日はよくて、今夜は駄目って理由は何だろう。彼なりに考えてみたものの、分かる筈もない……
桃里は知らなかった。
居酒屋に、あの女がやって来たことを。そして舞夏に声をかけ、此処のことを聞いたのだということも。
彼女は処方箋を手掛かりに探偵に調べさせていた。
このアパートの持ち主が桃里だと知り、住民の舞夏に桃里の女性関係を尋ねたのだということも。
不思議な邂逅ともいえた、夏の夜の出来事である――。