『雪の深さを』

 耳の奥で、き〜んと耳鳴りがしたような気がした。
 空気が澄んでいるのだと、気付くものの床から動くことはできそうもない。

 障子を抜けてくる日ざしは明るく感じるが、これはもしや、と首を延ばしてみる。
 駄目だ。
 部屋が広いのも、時には厄介なものだ。

「律」
 結局、呼んでしまった。
 忙しいのは分かっているのに、これ以上我が儘を言うと、母上に小言を並べられそうだ。
「何でしょう、お兄様」
 暫し待つと、妹の律が襖を開けた。

 やっぱりだ。
 この空気の冷たさ。物音ひとつ聞こえぬ静寂。
「雪が降っているのかい」
 妹はただ微笑んで、それが当たっていたことを教えてくれた。
 そうか、そうか。
「積もっているのかい。今もまだ降っているのかい」
 常規(つねのり)は、思わずあれもこれもと問いかけてしまう。
「お兄様、雪は今も降り続いておりますよ。まだまだ積もりそうです。積雪は、このくらいでしょうか」
 そう言って、律は右手の指で数センチの深さを見せる。その顔はどう見ても笑われているな。

 しかし、まだ降っているか。
 それでは、このまま降り積んでゆくか。明日までには、どのくらい積もるだろう。
 常規は、空から舞い落ちる雪を思い、空想の世界にいってしまった。律が部屋からそっと出ていったことにも気づかぬほど、雪は気持ちをわくわくさせてくれる。

 雪はいい。
 辺り一面、嫌なものは全て消してくれる。
 ならば、我が身の病も消し去ってくれたらいいのに。それだけは許されない。

 あれから、どのくらい経っただろう。
 雪は、どのくらい積もっただろうか。
 駄目だ。
 気になると、知りたくてたまらない。でも、また律を呼ぶわけにはいかない。そんなことをしたら、母上が乗り込んでくる。

 そうだ。
 下の世話を頼もう。
 そこで、さりげなく聞くのだ。
(雪はまだ降ってるのかい)
 いい案じゃないか。
「律、頼むよ」
 律の返事が聞こえたところで、常規の頬はにやけてしまっていた。

 そんなことを続けもう幾度、律を呼んでしまっただろう。
 でも、そんなことはいい。
 雪はまだ、降り積んでいるらしい。

「常規さん。いいですか」
「はい」
 やば〜い。
 やばい、やばい、やばい。

「常規さん。律は貴男の世話だけで過ごしているわけではないんですよ。雪が降っても、食事の支度はありますし、お掃除もあります。たびたび雪の様子を聞いてどうします」
「申し訳ありません」
 ごもっとも。
「もう呼びません」
 床の中なので頭を下げることこそしないが、確かに反省すべきだろう。

 明日の朝。
 雪は、どうなっているのだろうか。
 止めば、子供たちは外へ飛び出してくるに違いない。東京には珍しい積雪。
 きっと大きな雪だるまを作るガキ大将もいることだろう。

 いつしか、しんしんと夜が更けていった。
 ふと浮かぶ、言葉の数々……

  -いくたびも 雪の深さを 尋ねけり-  正岡子規

 結核は己の躰を蝕み、降雪の様すら見せてはくれぬ。
 そんな思いをかかえながら過ごす、明治二九年の冬である――。

【終わり】

著作:紫草

NicottoTown サークル「今週のお題・別館」より【雪だるま】2013.01.21

 *あくまで作り物です。
  ですがモデルは俳人、正岡子規氏です。
  妹の律さんは、素晴らしい女性ですね。   紫草 拝

別館表紙
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