俺でよければ、何でも聞いてやるからさ。
 いつでも、来いよ――


『 Vivid impression 』


 入梅も過ぎた六月。
 時期外れの転校生は、四軒向こうにある少し古い貸家に越してきた家族の一人だった。
 その人にとっては父親になる人が越してきた翌日の夜、挨拶にやって来た。最近では、珍しいことだと母が言う。何故なら町内会に入る人や引っ越しのご挨拶回りをする人はめっきり少なくなったから。
 だからだろうか。
 立ち話とはいえ、玄関に麦茶を持ってきてと言われた。その日は少し蒸し暑かったから、千紗は氷を二つ浮かべたグラスに麦茶を注ぎ盆に乗せ運んだ。
 その人にグラスを渡すとお礼を言われる。すると千紗の年齢と同じくらいの息子がいるから、よろしく頼むよと笑顔を見せた。
(うちのお父さんより、若くてかっこいいよ)

 母がどこの学校かと聞くと、歩いて十分ほどのところにある公立高の名を挙げる。
「この子。チサっていうんですけれども、同じ学校ですよ。今、二年生です」
「息子も二年に編入します。フウガといいます。明日、登校するので見かけたら声をかけてやって」
 終わりの言葉は千紗に向かって告げられた。
「はい。何だったら一緒に行ってもいいですよ。朝、迎えに行きましょうか」
 千紗の言葉に、帰ったら伝えると残し彼は帰っていった。そして五分もしないうちに電話がかかってきた。
 母が、水谷さんからと言って受話器を渡す素振りをする。
(誰?)
 と唇だけで尋ねると、さっきのフウガ君のお父さんと返ってきた。
 成程。即行、話をしたらしい。

「はい」
――初めまして。水谷楓雅です。今、父から話聞いたんだけど、一緒に行ってくれるって社交辞令かな。

 そこまで一気に話されて、返事を待っているようだ。
「社交辞令って、いきなり四字熟語でくると思わなかった。違いますよ。よかったら学校の案内もしますが」
――よかった。じゃ、お願いします。

 同い年って分かっていても、少しだけ低めの声で大人っぽく話す人だった。
「分かりました。明日の朝、少し早いけれど職員室で話もあると思うから七時半に迎えに行きます」
――え? 家、分かんの?
「フウガ君んちから東に四軒。南風(みなかぜ)という表札が出てます」
――分かった。じゃ、こっちから行った方が学校に近くなるから、俺が行くよ。七時半ね。
「じゃ、待ってる。おやすみなさい」

 受話器の向こうでも、おやすみという声がして電話は切れた。
「自分ちの電話なのに、初めて使ったかも」
 母が、今の子は携帯ばっかりだもんねと少し嫌味混じりのような声音で話す。
「こっちの方が学校に近くなるから来てくれるって。たいして変わらないけれどね」
 千紗が、ぺろりと舌を出しソファから立ち上がった。
「寝坊だけはしないでね。母さんが笑われちゃうから」
 どうせ、いつもぎりぎりまで寝てますよ。
「明日の朝だけは頑張る」
 そう言うと父の帰宅を待たずに、早々にベッドに潜り込む千紗であった。

 翌朝、約束の時間ぴったりに楓雅はやってきた。
 第一印象って大事よね。なのに、その時のことを千紗は全く憶えていない。背が彼のお父さんより少し大きいかなって思ったことだけ。いつものように眠そうな目をこすりながら、こっちだよと学校に向かって歩き始め、気付けば正門前という所に来てしまっていた。
「朝、苦手なの。ごめんね」
 職員室の前で別れる時、そう言って中にいる先生に、転校生連れてきましたと声をかけた。
 彼もただ、ありがとうと言うだけだった。

 いえいえ。
 千紗にとっては、いつもより二十分も早く学校にいるなんて凄いことだ。自分でもよく起きられたと思ってる。たまにはこんな日があってもいい。
 しかし、甘かった。
 この日を境に千紗は毎朝、楓雅と登校することになった。何故なら、学校行く途中だからと声をかけに来るからだ。
 父も母も、それはいいと叩き出す。
 酷い時は、食パンを手にしたまま。ある時はパジャマの上に制服を着たこともあった。

 面白いもので、幼馴染というわけでもない二人だったのに凄く馬が合った。付き合うって言葉はなかったけれど、いつも一緒にいた。ただ近くにいすぎたから、居過ぎてしまったから大事なことを忘れただけ。
 いつしか千紗は、全力で楓雅を好きになっていた。

 あっという間に時は過ぎ、高三の夏。
 もうすぐ二学期という夏休み、やってきた時と同様に楓雅の突然の転校が決まった。
 彼にはお母さんがいない。だからお父さんの仕事が通学不可能になると転校するのだと教えてくれた。そう、最初に聞いていたのに。
 千紗は日々の楽しさのなかで、それをすっかり忘れてしまったのだ。いつか、彼がこの土地を離れるなんて考えなくなっていた。

 引越しの日程が決まり、手伝いに行くようになると話すことも少なくなった。
「俺でよければ、何でも聞いてやるからさ。いつでも、来いよ」
 楓雅はそう言ってくれたけど。
 日本にいるなら少しは頑張ったかもしれないけれど、外国には行けない――。

 二人で過ごした時間は青春の真っ只中で、想い出にもならず心の底に沈んでいる。
 今時の若者なのに、楓雅は携帯もPCも持たない。
「国際電話って高いんだよ。メールしようよ」
 と言ってみたが却下された。転々としている自分には、増えてしまう関係は無用のものだからと告げられた。そう言われてしまったら、千紗にはもう何も言葉は出なかった。

 楓雅の痕跡は、まるで雨上がりの水たまりのように跡形もなく消えてしまった――。

 別れの日、空港で見送った後ろ姿が目に焼き付いて離れない。あれから高校を卒業し、大学に進学した千紗は新しい恋もした。来春、社会に出ればまた環境も変わるだろう。
 でも、いつまでも忘れることのできない人は心の中で生き続ける。最後に見た背中に、声をかけ続けている。

 梅雨の季節になると、千紗はもう取り壊されてしまったあの家の前に立つ。どういうわけか更地になったまま、放置されている空き地はその後誰かが買ったという噂も聞かない。子供たちの遊び場にもなっているならと、その場に長く佇んだ。
 目を閉じると耳の奥で、少し低めの優しい声が千紗を呼ぶ。引越していってから一度も連絡を取らなかった。いや、取れなかった。
 今では記憶のなかだけの楓雅の声は、それでも鮮やかに響いてくるのだった。

【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2014年6月分小題【水たまり】

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