『えにしの絲』


「美夜珠(みやず)、そろそろ結婚しようよ」
 神田倭(やまと)は、もう何百回言ったか分からないプロポーズを幼馴染の木花美夜珠に告げる。そして返ってくる、いつもの返事。
「うん。いいよ」
 その言葉はもう聞き飽きたぞ――。

 倭と美夜珠はマンションのお隣さん同士で、いわゆる家族ぐるみのお付き合いというやつだ。
 越してきたのは幼稚園に入る頃だったらしい。しかし物心ついた時には一緒にいたし、小学校の低学年まではどっちの家に帰ったのかも憶えていないくらい互いに入り浸っていたものだ。

 美夜珠は算数が得意で、倭は国語と社会が得意だった。だから宿題は必ず二人でやっていた。それなのに、ある日もう一人クラスメイトがやって来た。当然、倭ともクラスメイトだ。が、何故か面白くなかった。それで気付いた。倭にとって美夜珠は初恋だと。小学四年だと早熟か。
 それから暫くは三人で行動を共にしていた。それが崩れたのは美夜珠の弟の武(たける)が仲間に加わるようになったから。武はお姉ちゃん子で、彼奴は美夜珠と全然話ができなくなってつまらなくなったのだろう。いつしか来なくなっていた。
 三つ違いの武とはもともと兄弟のように育ったし、三人目が武なら焼きもちを焼くこともない。
 いつも、という日常がずっと続くと子どもは思う。
 倭もそうだった。このまま三人で中学高校大学と、つきあっていくのだと信じて疑わなかった。

 一変したのは美夜珠と武のお母さんが病気になった頃だ。遊びに行くことは駄目だと言われ、それでも行ってみたが誰もいない。二人は学校をよく休むようになり、そして五年の夏に突然消えた。
 母ちゃんから引っ越したと聞かされ、いなくなって初めて、もう会えないという言葉がブロックになって頭の上から降ってきたような気がした。

 それから一年。
 再び美夜珠たち家族が隣に住むようになった時には、お母さんは亡くなっていた。六年の夏、お母さん代わりになった美夜珠とは以前のように遊べなくなり、それでも一緒にいたかった倭は部屋に上がり込んで過ごした。
 中学はよかった。校区がある。高校を選ぶという段階になり、同じ学校に行くには絶対に偏差値が足りないとなったのは倭の方だった。慌てて塾に通い始め、一緒にいる時間がまたなくなった。それでも高校はそれほど難しいとは思うことなく合格した。問題は大学だった。
 美夜珠は何と広島大の薬学か教育学部に行くと言ったのだ。冗談じゃない。それじゃ絶対に同じ大学なんて無理だ。
 だから、というのも変だけど、高校三年の夏に最初のプロポーズをした。それから八年、いいよと言われながら実現できずにいる。

「やまと。そろそろおばちゃん、帰ってくるんじゃない」
 そう言われて時計を見る。
 ほんとだ。やばい。今日の夕飯は自分の当番だ。
「美夜珠、今晩何食べたい」
「おうどん」
「お前な〜 作ってすぐ食べるってのは駄目」
「じゃ、何でもいい」
 全く、たまにリクエストしたかと思えばこれだもんな。
「天ぷらでも揚げるか。あとでうどん茹でてやるよ」
 わ〜い、という声を聞きながら買い物してくるな、と残して外に出た――。

 大学四年の時。
 美夜珠と武はお祖母さんの法事があるからと、岐阜にある伯父さんのところへ出かけていった。そして帰ってくると美夜珠の様子が変わった。大学院に進むと言っていたのに急に就職するという。そしてお祖母さんの遺書代わりだというノートを読ませてもらった。

 十二歳の女の子が母親を亡くした。おじさんは孤児だったから当然、おばさんの方の助けがあるのだと思った。だって家なら、母ちゃんが風邪ひいたってだけで祖母ちゃんが飛んで来る。
 でも誰も来なかった。
 広島市内にお祖母さんのお姉さんがいるって話だったけれど年齢的に手伝いに来るわけにはいかないとか。じゃ、お祖母さんが来るのかと思ったが、それもなかった。結局、美夜珠が一人で家事をしてきたのだ。

 お祖母さんのノートからは、淋しい思いをしていた生前が分かる。なら、岐阜からこっちに来ればよかったのに。
 それもできなかったのかな。
 おじさんが、海外出張の多い仕事だからこっちに来てもいいと伝えたことはあったらしい。どうしてその時に、来なかったんだろう。
 美夜珠はその答えが見つからず、自分が結婚するという現実を受け入れられずにいるようだ。いいよ、の返事だけが繰り返される羽目に陥った。
 そのせいで二軒での半同棲状態は四年になる。

「やまと、何黄昏てんの」
「おい、それはないだろ」
 今夜、一番帰りの遅い武だった。今夜は木花家で夕飯だ。母親にメールで知らせ、うどんを茹でるための湯を沸かす。
「で、やまとは何に悩んでるんだ」
 手伝いに出てきた武にそう聞かれ、今更な答えを言ってみる。いったい、いつ結婚できるんだろうなと。
「やまとの考える結婚って、何?」
 え?

 そういえば、結婚って何だろう。余り深く考えなかった。
「一緒に暮らすっていうのは、もう理由にならないよね。じゃ、結婚式をあげたいの」
 いや、そうじゃない。
「俺、家族になりたい。木花でも神田でもいいからさ。美夜珠と同じ名前になりたいかな」
「そんなの、自分で婚姻届貰ってきて出しちゃえばいいじゃん」
 おっ、お前、何言うんだ。
 こういうのはだな、ちゃんと二人で……
「もしかして、やまとって二人で市役所行きたいとか思ってる?」
 一瞬、固まってしまった。
「図星か〜 結構、乙女じゃん」
 うるっせ、と言いながら、やっぱり愚痴ってしまう。行こうって誘うと仕事とか用事とかってはぐらかされるんだよ。
「ねえちゃんさ。入籍するって言えば、いいよって答えると思う。だいたい今までだって、何聞いてもいいって言ってるだろ」
 ま〜 そうなんだけどさ。
「あ。おばちゃん、来た。運ぶよ」
 武のその言葉で、うどんを茹で上げ笊にあげた。今夜は天ぷら定食だ。

 それから暫くして、武が婚姻届をもらってきた。
「ねえちゃん」
 武が語りかけたのは美夜珠に対してだったけれど、みんなが続きを待っていた。
「神田美夜珠になってあげてよ」
 何とシンプルな……
「いいよ」
 え?
「いいのか?」
「前から、いいよって言ってるでしょ」
 この四年は何だったんだ。
 そのままみんなのいる所で、署名をさせられる。二人の名前だけじゃなくて、証人も書くんだ。知らなかった。
 うちの母ちゃんが大安に出そうというので、数日待って届けを出しに行った。何と、武と一緒にだ。

 そして聞いた。お母さんの時は子供すぎて何もできなかった。ばあちゃんの時は、わざわざ岐阜まで様子を見に行こうとは思わなかった。でもそのせいで淋しい思いを抱えたままの二人を亡くしてしまった。
 だから自分から幸せを連想する家族になることに抵抗があったんだと。

「武がいなかったら、まだ当分できないままだったかも」
「じゃ、肉おごってくれ。さっきから腹へってるんだよ」
 全く、お前は本当に可愛い義弟だよ――。
【了】

著作:紫草

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