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『冀望』2


 生まれて初めて受け取った電報には、
『きょうとえきにてまつ いな』
 という文字が打ってあった。

 ……衣娜。
 これ、いつのことだ。
 寮のおばちゃんに聞いてみると、普通は今日だろうと言う。今日ってもう午後五時を過ぎようとしている。
 まさか一人で来てるわけじゃないよな。そう思いながら急ぎ支度をして駅に向かう。途中、公衆電話から衣娜の自宅に電話をかける。何と彼女は一人で京都へ向かったと言われた。

 何処だ。
 約束をしているわけじゃない。母親が言うには、もし予定がなかったら会えるといいなと言いながら出かけたそうだ。
 どうして、それだけのことで京都まで来られるんだよ。会えなければ、そのまま帰りの電車かバスに乗ってしまう。
 その時だった。
「景くん」
 思わず声のする方に振り返る。山口さよりが立っていた。

 こんなところで偶然会えたのだから、お茶でもしないかと誘われる。しかしこの時の景に彼女を気遣う余裕はなかった。ごめんという言葉も告げずに断ると突如彼女が泣きだしてしまった。
 正直、どうでもよかった。ほっといて歩き出す。このまま彼女から離れてしまえれば何も問題はなかったのに。
 しかし神さまは意地悪が好きだ。景の腕を捕まえ、自分のどこがいけないのだと、まるで痴話喧嘩のようなことを言われてしまった。刹那、数メートル離れた場所に衣娜の姿を見た。

 衣娜は微笑んだ。そしてゆっくりとお辞儀をしてそのままこちらを見ることなく背を向けられる。
「待って」
 山口の手を振り払い、衣娜を追う。京都駅の夕方ってどうしてこんなに混んでるんだよ。白いジャケットと黒いジーンズ。そんなありきたりの恰好なんて、あちらこちらに見える。やばい。見失う。そう思った時、思わず叫んでいた。
「衣娜!」
 そこで漸く衣娜の足が止まる。

「ごめん」
 駆け寄り、とにかく謝った。何に謝っているのかも分からないままだった気がする。衣娜の表情は硬い。何より一言も言葉がない。一年半振りくらいか。まだまだ可愛い中学生だ。でもどこか儚げに見える表情に、胸が痛くなる。
 その時、景君と呼ぶ山口の関西特有の声が届いた。
「その子、誰」
 お前には関係ない、簡単にそう言えたらよかった。でも、そんな言葉を聞かせたくなかった。言い淀んでいるうちに、山口自身が衣娜を問い詰める。
「あなた、誰」
 衣娜は、顔見知りですとだけ答えた――。

「衣娜。ご飯食べに行こう」
 景が誘うその言葉に山口が一緒に行くと衣娜の手を取った。きっと子供だからと侮ったのだろう。でも衣娜は、相手が大人だからといって怯むような奴じゃない。
「嫌です」
 一歩も動くことなく断った。そして驚く山口に向かって言い放ったのだ。
「あなたに付いていく理由がありません」
 と。
 これでは山口の方が責められているように見える。
「私は……」
 景は純粋に時間が勿体ないと衣娜の手を取った。そして、行こっと小さく告げる。
「もう少ししたら深草まで行かないと」
「キャンセル。折角来たんだ。暫くこっちにいろよ」
 そう言うと衣娜が財布を出した。中味は数百円といったところか。
「本当はさ。春休みにそっちに行こうと思ってバイトしてた。だから金の心配はするな」
 そう言うと衣娜の表情に笑顔が戻った。

 それから四日。
 小さな旅館に宿泊することができたので、あちらこちらと連れ出した。衣娜は自分のことを勉強ができない、成績が悪いという表現をするが、頭の回転はすごく早い。突然、突拍子もないことを言ったりもするが、それはそれで面白いから楽しい。
 いつの間にか、相手が中学生だという感覚も忘れ毎日を本当に楽しく過ごし、今度は広島まで行こうと誘った。衣娜は不思議そうな顔をしていた。それはそうだろう。この時まで景が広島出身だということを知らなかった筈だから。
 帰りは新幹線と電車で帰ればいいからと、ぎりぎりまで一緒にいたいと我が儘を言った。
 それからまた数年経ち、高校生になった衣娜を連れて広島へ行った――。

 衣娜は竹のように生きている女の子だ。
 風が吹くと、すぐにさわさわとそよぐ。なのに簡単に折れることはなく、地にしっかりと根を張っている。
 そんな強さは穏やかな表情のなかの、その黒い瞳がまざまざと物語っていた。
 衣娜が大学四年の秋に結婚した。秋がいいというので一年待つくらいなら籍だけでも入れようと。するとお義母さんがお式を挙げてからだと譲らずに、結局挙式と入籍をして、またばらばらになった。学校が名古屋だったから殆んど逢えなかったけれど、妊娠したって言われた時はさすがに岐阜まで飛んでいった。そして卒業してすぐの初夏、衣娜は女の子を産んだ。

 最終報告の病名を聞きに行った時、衣娜はただそうですかとだけ呟いた。きっと薄々気づいていたのだろう。留守がちの景が愚かだったと初めて後悔した瞬間だった。
 それからの一年余り、景は休職しずっと衣娜のそばにいた。偶然とはいえ、木花などという珍しい苗字だったことで思いがけず親戚も見つかった。そして病院に近いこともあり、その叔母の病状もよくないことから引っ越すことにした。
 日々は穏やかに過ぎていった。子供たちもすぐに新しい友だちができて、近所の丘を走り回って遊んでいる。そんな様子をただただ幸せそうに眺めていた。

 余命というのは分からないものだ。
 衣娜は、一ヶ月と告げられた期限を一年以上生きのびてた。まだ若いのだからと、景の再婚の心配までして。
 一緒に過ごした一年、衣娜は一生分の幸せを運んでくれた。
「再婚なんてしない。子供たちがいるんだから」
 衣娜とは正反対の性格だが、やはり娘だなと思う美夜珠。生まれる前まで小さいことを気にしていたのに、あっという間に標準以上のサイズに育った武。
 きっと二人が頑張ってくれる。そう言って笑った。最期は皆に看取られ見守られ、そして眠るように逝った――。

 時は流れ、その娘が今度母になる。どうやら女の子のようだ。
 マンションのお隣さんという距離は、すごく遠いか近いかだ。衣娜は越したその日のうちに左隣の神田一家と仲良くなったと言って、休みにはよく一緒に食事をした。そこで育った二人が夫婦になり親になる。
 武にも会って欲しい人がいると言われていて、まだまだ賑やかな毎日を過ごすことになりそうだ。もう暫く、衣娜の分までこの子らと一緒にいよう。

 今では白いものが混じり始めた頭を掻いて、思い出の中の若いままの衣娜の姿を懐かしく思い出すだけである――。
【了】

著作:紫草

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