バレンタインという名前が流行り始めた頃、私はまだ小学生だった。
ませた友だちが同じクラスの男子とつきあうと言ってきても、よかったねと言いながら、本当の意味はよく分かっていなかった。もしかしたら友だちの方も、つきあうという言葉に酔いしれていただけなのかもしれない。日曜日にみんなの家に遊びに行ったり、少し電車に乗って出かけたりするくらい。
そんな私が初めて本当の意味で、バレンタインを知ったのは高校生の時だった。
入学してすぐに知り合った二学年上の上原先輩が好きだった。
同じクラブに入って、ただ見ているだけで嬉しくて、それだけで幸せなんて言葉を使ってしまうくらい毎日がハッピーだった。人気者の先輩は女子に限らず、いつも誰かが周りを囲んでいた。その頃、流行っていた音楽の話や、テレビ番組の話、どんな本を読んでいるのかとか、とにかく話題が豊富で私はそれを少し離れたところから見ているのが常だった。
そして季節がどんどん過ぎて、年が明ける頃になると、みんなの口から手作りという言葉が出るようになっていく。
そっか。
好きな人にチョコあげるんだ。
それまでのバレンタインとは全く意味の違う言葉に聞こえた。
当時、義理チョコなんてものはまだ少しだけで、やっぱり本命が一番という感じ。でもお菓子なんて作ったこともなかった私には、先輩にチョコをプレゼントするなんて考えてもみなかった。
バレンタインを翌日に控えても、当然、台所に立つのは普段の手伝いであり、母の横に立っていても、チョコの作り方を訊いてみようなんて思いもよらない。だからその日の夜、母から綺麗にラッピングされた箱を渡されても、それが何を意味するものか分からない。すると母が言ったのだ。
『そろそろ、こういうものに興味を持ってもいいんじゃないの?』
と。
その小さな箱を、誰かに贈ってもいいわよと残した母に何を意味するのかを問いただすことはなかった。教えたことはなかったが、母はきっと私が先輩を想っていたことに気付いていたのだ。
悩んだ。折角の母の思いをどうしたらいいのか。
そして私はその小さな箱を鞄に入れるだけ入れて、バレンタインを過ごそうと思った。先輩に渡そうとは思わなかった。それでも二月十四日にチョコを持っているという雰囲気を味わっていたかった。
朝から下駄箱の前でそわそわしている同級生や、早くから上の学年の昇降口へ向かう女子たち。自分もそんな中に入っているような気がして何となく嬉しかった。
そしていつものように教室へ向かう前に部室に寄った。
「おはようございます」
ほぼ毎日一番乗りでも、何となく部屋に入る時には声をかけてしまう。すると、その日は返事があった。
「おはよう。美鈴、早いな〜」
上原先輩だった――。
先輩に直接チョコを渡したいという女子は多い。きっと今も下駄箱前で狙ってる子はいる筈だ。なのに何故ここにいるのだろう。
「先輩、いいんですか。もうすぐ、ここにもみんなが来ますよ」
それまで殆んど話したことはなかった。どきどきが伝わってしまうんじゃないかと思うくらい、どきどきして恥ずかしかった。
「う〜ん。それは困るな。鍵閉めちゃおっか」
先輩はそう言って私の脇を通り過ぎ、ドアノブにあるボタン式の鍵を押し込んだ。
驚きはピークに達する。
「じゃ私も行くので、出たらまた鍵閉めて下さい」
まだ鞄を持ったままだった。そのまま体を反転し行こうとした。すると腕を掴まれる。
!
「行くなよ」
「……先輩」
「別にチョコレートが欲しいなんて言わないからさ。もう少し一緒にいようよ」
掴まれた腕はそのままに、背の高い先輩を見上げるばかりだった。
その時、私は前夜の母との会話をそのまま伝えた。
中味も知らない小さな箱、それは私の目の前で先輩の手で開けられた――。
恋の始まりは、小さなチョコの箱と先輩の勇気だ。
初恋は一度終わり、数年後、改めて始まった。そして私の性は現在、上原になっている。
【了】