『大人の都合』


 父親は、いない。
 母は、たった一枚の写真と、この人がお前の父だと言っただけ。弟の父は、今一緒に暮らしている人。しかし穂花は違うのだと。
 そして、このことは一緒に暮らす、父と呼んでいる人にも弟にも内緒だからと言う。

 何故、穂花にだけそれを告白したのか。
 高校卒業を来春に控え、進路を決めるこの時期に――。
 つまり家を出て行けと、暗に言っている?
 神崎穂花、ハロウィンに誕生日を迎える十七歳の高校三年生だ。

 金木犀の香りが街を彩り始めた。その日、話があると母が部屋に入ってきた。
 3LDKの一部屋を穂花は与えられている。玄関入ってすぐの小さな部屋で、真ん中のリビングを挟んで奥の二部屋を両親と弟が使っている。
 だから、この部屋に誰かが入ってくることは殆んどない。
 珍しいこともあるものだと思いながら、ベッドに移動し椅子を明け渡す。
 そこで突然始まった、ドラマのような科白に穂花は笑うことも泣くこともできなかった。

「お母さん。何、言ってるの?」
「それだけよ。じゃ、約束は守ってね」
 母はそう言って出て行ってしまった――。

 嘘でしょ。
 そんなこと聞かされて、いったいどうしろっていうのよ。
 お父さんの顔だって、もう真正面から見られないよ。弟だって……、そうじゃない。自分がいなくなれば、この三人は正真正銘の家族ということか。

 確かに穂花の顔は母親似で、父にはあまり似ていない。
 でもそんな親子はたくさんいるし、自慢するような娘じゃないけれど、こんなこと言われちゃうほど悪い子だったってことなの。

 渡された写真は、身分証明書に貼るような上半身の男の人が写っている。
 父親?
 信じられないよ。
 どうしたらいいの?

 暫くすると、リビングに接するキッチンから母と弟の話し声が聞こえてきた。
 普段は気にすることのない二人の会話に、聞き耳を立てた。
 どんな顔をして出て行けばいいのだろう。
 高校一年の弟は、母の手伝いをよくしている。仲の良さは折り紙つきだ。自分はどうだったろう。
 あまり話をしない親子だった。中学の頃から買い物も一緒に行かなくなった。受験を理由に家族で出かけることもなくなり、思い返すと家族の思い出がなかった。

 いつもの時間がきて父が帰って来た。
 今しかない。
 穂花は、ドアを開けた。
「お帰りなさい」
「お。穂花か。ただいま」
 父はいつもと変わらない。
 靴を脱いで、廊下を歩いていく。穂花はその後ろについてリビングに入った。

 二人がお帰りと声をかけている。
 母は父のスーツを受け取ると奥の寝室へ消え、父は洗面所に向かう。
「俊ちゃん」
 台所に残った弟に声をかけた。
「何?」
 視線はまな板から離れない。
「何を作ってるの」
「これはね。サラダだよ。ちょっと粗みじんな感じで、あとでドレッシングかけるんだ」
 美味しそうね、と言いながら手を洗った。
 手伝うよと言うと、お皿出してと返って来た。

 よかった。
 いつもの俊介だ。

 この夜。
 穂花は約束を破って、食卓で母に告げられたことを暴露した――。

 最初。
 父は何の冗談を言っているんだと笑っていた。
 でも母の様子を見て言葉を失い、やがて睨み合いになった。

 弟もほぼ同じ反応だった。ただ違ったのは、やっぱりそうだったんだと言う呟きがついてきたこと。
「知ってたの?」
 聞き逃さなかった穂花は俊介に聞いた。
「うん」
 俊介は両親を横目で見ながら、穂花が二年前に受けた手術の時の話を持ち出した。
 うちは父がB型で母がA型だから、どの血液型もありえる。ちなみに穂花はA型だった。どうして血液検査で父の子でないとわかるのだろう。
「姉ちゃん、輸血の紙見てないだろ。あれ、色々書いてあったんだ」
 その時、血液型も細かく分類されていて知らないアルファベットのものもあったのだと言う。
 いちお家族全員が検査を受けた。その数値の違いは何となくわかったと言う。

「姉ちゃんだけ、多分AA型だよ。俺はAO型。お父さんはBO型。お母さんはAO型だった」
 確かに、ABO式の血液型にAOやBOがあるのは知っていた。でも自分のA型が、まさかAAのA型だったなんて考えてもみなかった。母がAOである以上、そして自分がAA型であるなら、BOの父との親子である可能性はない。

 気づけば二人の睨み合いは言い争いになっている。
 その中で、開き直るように言い放った母の言葉に心臓が止まるかと思った。

「穂花。その写真を持って来なさい」
 母のあなたも知っている人という言葉で、父が穂花に言った言葉だ。
 ここまで来たら、もう言う通りにした方がいいと思った。穂花は部屋に戻ると、先ほど渡された写真を手に部屋を出る。

 もしかしたら、自分は母に利用されたのかもしれない。
 こんな話をされたら、絶対に父に話すと考えただろう。父の方が好きなのは母にも分かっていただろうから。
 リビングに入る前に、改めて写真を見た。
 似ているのだろうか。
 少しだけモヤっとしたものを感じたけれど、気持ちを切り替えて父に渡す。

 その刹那。
 父の表情で、知っている人なのだということが分かった。
 つまり穂花は父の子ではない。

 もう何を聞くのも嫌になった。
 俊介に部屋へ戻ると伝え、食卓につくことなく引き返した。

 昨日までは普通の高校生だった。
 一日で人生が激変してしまった。
 穂花は祖母に電話をかけた。簡単に、これまで聞いたことを話し尋ねる。
「おばあちゃんは知っていたの?」
 沈黙は、雄弁に真実を語っていた。

 大人たちは自分のことしか考えていない。
 自分がどうしたいかで子供を振り回す。
 結局、母は父との暮らしを続けることが嫌になっただけだ。
 それを言い出すきっかけを穂花にやらせた。

 ベッドに突っ伏していたら、ドアをノックする音がした。
 誰、と聞くと俊介が入って来た。
「父親が違っても、俺は弟だから。そんなに気にするな」
 それだけ言って出て行った。小さな頃から気持ちの優しい男の子だった。

「ありがとう」
 すでにいない彼に、その言葉を言えなかった自分にまた嫌気が差す。
 母はどんな気持ちで真実を暴露する道を選んだのだろう。自分の思い通りに生きていく、あの人は少し苦手だった。
 いつだったか。
 大好きな人、という言葉を使う母がいた。あれは父のことではなかったのか。
 まるで好きなものを狩る野生動物のように、好きなものだけに囲まれていたいのだろうか。

 多分、我が家は崩壊するだろう。
 野生の動物なら本能の赴くまま、好きな所に飛び立つのかもしれないが今の自分にはその力はない。

 これから、どうなるのかな。
 リビングはいつの間にか、静寂に包まれている。二人の話は終わったらしい。 

 さらに時間が経ち、父がやって来た。
 この部屋に、こんなに人が来るのは初めてだ。
「入るよ」
 その声はいつもと同じだった。
 顔は少し疲れているようだ。
「お父さん。知ってる人だったんだね」
 そう言ったら、その話はもうやめようと言う。
「穂花は、ちゃんと父さんの娘だからな。気にするな」
 ただ母は出ていくらしい。やっぱり勝手な人だ。

 もう、同じ生活はできない。
 でも、一つだけ分かったことがある。
「お父さん。私ね。お母さんのこと、嫌いだったみたい」
 そう言ったら、涙が流れた。
「これから三人で頑張ろう」
 父の言葉が、優しく胸にしみた。これも大人の都合かもしれないと思いながら――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2018年10月分小題【狩り】
Nicotto創作 List 『大人の決断』
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