父親が二人になった。
二人の父は高校からの友人同士だったという。母の存在は何処にもない。
何故、父は母と結婚することになったのか。
神崎穂花は、この歳になって漸く気持ちに余裕ができた。実父の骨髄移植から六年の歳月が過ぎた冬のことだった――。
あの時、実父の病状はかなり危なかったと医師から知らされた。
厚顔無恥な母親ではあるが、もう方法がないと言われれば連絡もしてくるかと、一方的に責めるのも大人気なかったと思いはした。
これは実父から聞かされたのだが二人は結婚していないという。いわゆる内縁の関係という状態らしい。押しかけ女房にすらなれなかったのかと思うと少しだけいい気味だと思った。
実父は穂花の存在を長らく知らなかったと言った。
親友とも言える男が結婚したと思っていただけだと。
罹患し、やがて治療法が骨髄移植しかないとなって、血縁者のなかからドナーを捜せないかと医師から提案された。片親で育った彼の母親は他界、兄弟もなく親戚付き合いのない実父に血縁者はいなかった。そこで母は実父には秘密のまま穂花に検査を受けさせることはできないかと考えたらしい。愚かなことだ。
あのファミレスでの邂逅。
穂花の存在は、帰った後に初めて告げられたという――。
あの日、外出許可までもらって何をするのかと思っていた。現れたのは女の態度から娘なのだろうと予測はついた。ただ何をしようとしているのか、皆目見当もつかず後になって、骨髄移植ができるかもしれない子だと教えられた。
必要ないと即座に断った。しかし知らないうちに穂花が検査を受け、正式に骨髄移植が可能だと結果が出た。
何十年振りかに親友の顔を見たよ、と言った実父の顔は不思議な表情を浮かべていた。
父は母親から話を聞き病室へ、穂花の父として会いに出向いたのだった――。
『久しぶりだな』
そう言いながら病室の扉を開けた男の顔を、穴のあくほど見てしまった。
大学卒業と同時に海外へ渡り、帰国したと思ったら結婚と聞いていつの間にか疎遠になった神崎龍一その人だった。
『どうしてお前が此処に来るんだ』
『一勢の知らない事情が山のようにあるんだよ』
そう言って笑った男は、学生時代と同じ男気に溢れていた。
その時、二人は時の過ぎるのも忘れ語り合った。穂花のこともいろいろ話したらしい。一勢の子だと知って尚、実の娘として育てていたと聞いた時は涙しかなかった。
母親は酷い女だったが、穂花は全く似ることなく、いい子に育ったと聞いた。
酒と若さの勢いのたった一度の関係が、何十年も経ってみんなを苦しめている。それを知って崎守一勢は龍一に頭を下げた。
骨髄移植も断ると言ったが、穂花本人が決めることだと父は聞いてくれなかったという。
どうしてあの人を追い出さなかったんですか。突然やってきた女はかなり怪しいと思うんですが。
この質問に対し実父は人恋しくなっていたのかもしれないと答えた。若い頃とはいえ、一度でも関係のある女というのは受け入れやすかったらしい。
それでも結婚はしないと最初に話し、嫌なら出て行けと。母親はそれでいいとし、そのまま居着いた。
これだけだと純愛のようだ。
好き勝手に生きていただけなのに。父ではなく実父の許に走らせた動機は何だったのか……。
何故、結婚を拒否するんですか。
『母が騙されたからね。結婚に夢は持っていない』
そこで彼自身も父親に捨てられた人だったと知った。
彼の父親は愛人だった女と一緒に母を追い詰めた。母から離婚を言い出すように仕向け、僅かな慰謝料だけで捨てられた。
実父は母一人に育てられた。その母を喪い、すべての希望を失った。
『今、生きていられるのは穂花ちゃんのお蔭だ』
もう何度も同じことを繰り返す実父、四十に近くなりつつある自分をちゃん付けとは笑えてくる。
「近く退院することができそうなんだ。本当にありがとう」
「じゃ、もう会えなくなりますね。あの人がいる家には行けないから」
すると彼女はもういないという。
いない?
不信の目で見る穂花に、実父が繰り返す。
「出ていったよ。ま、半分は俺が追い出したんだけれどね」
だからといって、自分の面倒をみて欲しいというつもりもないし、もう会わなくても構わないと言う。
なる程。それならば、もう関わるのはよそう。この人に会えば父が悲しむ。
穂花は病院を後にした。
この六年の間に弟は家を出て、大阪の病院に勤めるようになっていた。祖父母は続けて亡くなり、今は父と二人きりで穏やかな毎日を過ごしている。
こんな日々だからこそ、そして実父からの言葉があったからこそ、実父や母の話を聞いてみようかと初めて思えた。
食事を概ね終えた後、明日の天気を尋ねるような感じで始めた話題だ。父は驚く様子も見せず、淡々と答えを重ねていく。その様子を見ていると予想していたのかとも思う。
父と母の出会いは見合いのようなものだった。職場の上司の紹介といえば聞こえはいいかもしれないが、実は違っていた。上司は母に頼まれてもともと違う男との見合いをセッティングしようとしていて相手にキャンセルされたのだ。
母は傷つき、後釜の父と結婚する道を選んだ。同じ大学で友人だったという理由だけで、もしかしたらまた会えるかもしれないという邪な思いだけで。
しかし同じ会社でありながら父と実父との交流は疎遠になっていた。母が実父と再び会うことはない筈だった。
その母が何故、家を出て実父の許へ向かったのか。
「罪滅ぼしだったのかも」
入籍もせず、出て行けと言われてそのまま本当に出て行った。ここに戻ることもなく、一人で生きている。
確かに母のしていることは滅茶苦茶だ。
「お父さんは、どうしてあの人に対してそんなに寛容なの」
少しだけ首を傾げ、父自身がどうしてだろうなと呟いた。
「私は嫌い。あの人のせいでみんなが苦しんだ」
母方の祖父母とは縁を切り、送られてくる様々なものは全て送り返した。不義理極まりない。
実父の病気のことで、父は母と母方の祖父の三人で話をしてきたという。
そこで聞いた話を穂花に伝えるかどうかを随分悩んだそうだ。ただ覚悟はしていたらしい。聞かれたら全てを話そうと決めていたと言った。
あちらの祖父母は連れ子ありの再婚同士だった。
そして祖父が捨ててきた家庭というのが、実父の母子なのだと聞かされた。
母は連れ子で、その後妹が生まれた。穂花にとっては叔母だ。実父とは兄妹の関係となる。その彼女が亡くなった。
皮肉な話だ。実父と同じ病気で骨髄移植することもなく逝った。叔母が亡くなった後、母は祖父から実父のことを聞き、かつて自分が結婚を望んだ相手だと知る。何故、見合い前に断られたのか、漸く理解した。その相手が叔母と同じ病に苦しんでいた。
『自分の父親のしでかしたことだからね』
あの人は、そう言って笑っていたらしい。
年を重ねてきて、苦しみや憎しみという感情に対する思いが鈍くなってきたのかもしれないと父は話す。もちろん増幅する感情を持ち続ける人もいるだろう。しかし彼はそうではなかった。
「確かに彼女のしたことは間違っていたし、勿論責任もある」
実父は若気の至りだったというが、母の毒牙にかかったというだけだろう。父が結婚することは知っていたが、相手が自分を口説いてきた女だとは知らなかった。
あの人自身、妊娠に気づいた時どちらの子かわからなかったのだと話したらしい。血液検査をすることが怖く、長らく知らないまま過ごしていた。
穂花が手術を受けることになり、血液型だけでなく様々な検査を受けた。そこで父の子ではないと知ったのだ。
いつバレるかと怯える日々は怖かったのだという。
そんなこと知らない。穂花は許さない。
ただ父の穏やかさは良い変化を自分にもたらした。
実父はもう会わなくていいと言ったが、父は親友として頼めないかと言う。独りは寂しいから。
今、自分は穂花と一緒にいられる。もし一人暮らしだったらと思うと耐えられそうにないよと笑う。
間もなく新しい年がやってくる。街はイルミネーションで彩られている。
人と人との縁の不思議を、身を以て感じる穂花であった――。
【了】