――少しお話をさせていただきたいと存じます。また改めてお電話致します。
紺野尚志(こんのひさし)は長らく使われていなかった留守番電話の再生ボタンを押して録音メッセージを聞いた。
名前は杷野万里子(はのまりこ)。携帯番号も告げていたが、電話の着信を確認すると固定電話のものだった。
誰だろう。
純粋に思う気持ちとは裏腹に、もしかしたらいつかこんな風に見知らぬ誰かから連絡があるかもしれないと思っていた自分がいる。
すでに三十路も過ぎた。結婚し子供も生まれた。
これがもっと若い頃だったら、反発する感情があったかもしれない。しかし家族と別居することになった自分自身を振り返ると、この電話があの人に繋がるものだろうかと素直に思えた――。
尚志には母親が二人いる。所謂、産みの親と育ての親だ。小学二年の時、産みの親は出ていった。四つ違いの妹は今では何も憶えていないという。自分も殆んど憶えていない。当然だろうな。
その後、父親から散々罵倒する言葉を聞かされて実の母に対して、いいイメージは一つも持っていない。それでも翌年、新しい母親だといってやってきた女には拒否反応を示した。ただ父親から、従わなければ食事を与えられないとか叩かれるというようなことが続き、結局嫌々ながらも受け入れることしかできなかった。
最初はどうだったか憶えていないが、今では両親の仲は決してよくはない。人前に出る時は取り繕っている感じで、家族揃って何かをすることもないし、妹は大学入学と同時に家を出ていった――。
尚志には反抗期という時期はない。反抗できるだけの信頼を親に対して持っていないからだ。実母に捨てられた心の傷は意識していなくとも残っているのだろう。継母に対して気を使うことはないが、表面だけで会話をしているような気がする。
結婚をしようと思ったのは、自分の家族が欲しかったからだ。出ていった母が自分たちを迎えに来ることはないと分かっていても、どこかで縋っていたのだと思う。そんな自分が嫌だった。
チェーン店の飲食店で正社員として働く。相手はバイトとしてやってきた大学生だった。二十代を終わろうとする尚志をどう見たのかは不明だが、結婚しないかと言ったらあっさりと首肯した。
式は挙げなかった。写真館で衣装だけレンタルして撮影をした。そのまま彼女が一人で暮らしていたマンションに入り、一年後に男の子が翌年には女の子が生まれた。
バタバタとしたまま過ごした三年だったと思う。正直に言えば、家庭の不和を感じる暇はなかった。
突然の崩壊はマンションの契約更新書類とともにやってきた。
「更新しない? どうして」
尚志のその言葉に妻は涙をこぼした。
「何を泣くんだ」
暫く何も言えないまま、泣いていた。その彼女が下の娘を抱き上げると、背中を向けて答えた。
「実家へ帰ります」
それから色々な話をした。自分の知らないところでまたしても父親が関わっていた。
日曜にやって来ることは知っている。孫が見たいと思うのは仕方がないかと相手をしてきた。ところが父は平日も頻繁にやってきては妻を相手に長く話をしていたのだという。
彼女は父の価値観を認めてなかった。その場限りの言葉であっても人を非難したり、乱暴な物言いをすることは許せないと言った。
尚志にとっては子供の頃からの日常で、こういう人だと思っていたが普通は許せないのだという。そして初めて彼女は言った。
「本当のお母さんが心や体に暴力を振るわれていたとしたら、出て行ったとしても仕方がなかったと思う」
何?
詳しく聞くと父がそれらしいことを言ったのだと。今は子供も小さい。でもいつか言われていることが理解できるようになる。その時、父と関わりを持ちたくないと言われた。
今は別居だが、やがて離婚することになるだろう。
これまで逃げてきたことから竹篦返しを食らった気がする。
あの電話が掛かってきた翌日、休みだった尚志は自分から連絡をとった。
場所を聞くと二時間くらいかかりそうだが行くと伝えると、逆に相手がこちらに来ると言った。なら最寄駅にきたら迎えに行くということで自宅に招いた。
少し歳の離れた男女が現れた。どんな間柄だろう。そう思いつつも何も話すことなくマンションまでの道を歩く。ただ予感はあった。この二人は間違いなく実母の関係者だ。
「死んだ?」
「はい。先月のことです」
「病気ですか」
「癌です。闘病期間は短く一年ほどでした」
主に杷野万里子が答え、ところどころ男性が言葉を足す。この人が実母の再婚相手だった。杷野まなぶと名乗った。優しい人に見えた、父とは正反対の。万里子は彼の姪ということだ。
内容は母名義の貯金に対して、財産放棄をするか権利を主張するかということだった。今更、母の財産を欲しいとは思わない。妹に連絡すると来られるというので実印を持ってきてくれとだけ言った。頭のいい彼女は何かを察したと思うが何も聞かないまま分かったとだけで電話を切った。
どんな人生だったんですか――。
聞けなかった。前ならきっと聞いただろう。自分たちを捨てて家族を捨てて、どんな生き方をしたのかと。
でも妻からの言葉が頭から離れない。子供を残して行かなければならなかった実母の気持ちを考えた。
「私との間に子供はいません」
彼女の産んだのはお二人だけですよ、と言った彼は少し寂しそうに見えた。あえて作らなかったのか、それともできなかっただけか。ただ口にする資格はない、と結婚を決めてからは二度と子供の話はしなかったという。
「この歳になっていてよかったです。母を恨むこともなく、素直に冥福を祈ることができます」
暫くして妹がやってきた。
玄関先で簡単に説明すると、頷いて部屋に上がる。
「初めまして。紺野あかりです」
彼女の言葉はそう言ったが、明らかに二人を知っているだろうと思わせる何かがあった。
「亡くなったんですね」
変だ。もしかして……
「お前、知ってたのか」
あかりの瞳から一筋の涙が流れていった。
「夢枕に知らない女の人が立つの。それも毎晩のように」
妹は母の顔を知らない。尚志だって殆んど憶えていないんだ。夢に出てきても、それが母かもしれないなんて思うわけがない。
「もしかしたら母かもしれないと思った。だから調べた」
入院している病室に行ったそうだ。
「何も話していないし、大部屋だったから他の患者さんのお見舞いだと思ったんじゃないかな」
写真の一枚もない母がよく分かったなと言うと、お兄ちゃんによく似てたと応えた。
書類に署名捺印して財産放棄し返す。
すると万里子がバッグから小さな風呂敷包みを二つ取り出した。
「これは叔父が用意した形見です。もし要らないと思われたら処分して戴くか、こちらに送り返して下さい」
それぞれの前に置かれた包みを開ける。
どちらにも現金が入っている。その他にあかりの方には着物の帯締めとスカーフのようなものが見える。尚志の袋には小さな箱が入っている。
「これ……」
へその緒が入った桐の箱だ。
母は、ちゃんと母親だったんですね。
「いけないことだと分かっていたが持ってきてしまったと言っていました。あかりさんの物はお父さんに隠されてしまい分からなかったそうです」
彼の言葉が胸に刺さる。
「母さん。ありがとう」
まるで天気雨のように、一瞬の糸雨が降ったようだ。そこに忘れていた筈の母の匂いが立ち籠めた――。
【了】