『娘』


 お裁縫箱を初めて買ってもらったのは、小学校の授業で使うための学校用品だった。
 小さな四角いプラスチックのケースで、柄は二種類。鈴がメインのものと駒がメインのもの。どちらも熨斗を組み合わせたデザインだった。
 中身は一つずつリストにあったものから必要なものにチェックをしていく。
 学校にお金を入れた申込み用紙の封筒を持って行くと、それから一ヶ月ほどしてそれが届いた――。

 荒井若葉(あらいわかば)、四十二歳。
 昔、若気の至りでできた子を相手に押しつけ仕事を選んだ。それから二十年余り。
 結婚こそしていないけれど、父親である彼、山崎悠人(やまさきはると)と娘の結芽(ゆめ)とはずっとつきあい続けている。
 その子が今度、結婚すると言う。

「私はね。あなたを捨ててしまった、と言ってもいいくらいの母親なの」
 もう何度も何年も言い続けてきた。なのに二人はことあるごとに若葉の許を訪れる。
「小さな頃ならいざ知らず、もうそれ言わなくても大丈夫だよ」
 呆れるように微笑んで、勝手にコーヒーを淹れて持ってくる。

 結芽には大学時代からつきあっている人がいた。今年二十三、大学卒業からまだ一年しか経っていない。
 三歳上の優秀な彼氏は今度、海外赴任が決まったそうで一緒についていくのだという。
 海外といってもいろいろだろうに、あっけらかんとしていることだ。
「それで、その報告に二人して現れたというの?」
 いい加減、面倒になってきた。とりあえず話を先に進めよう。

「うん。ドイツ行っちゃったら簡単には会えなくなるでしょ」
 結芽の言うことは少し変だ。
 我々三人は家族ではない。本来、会うとか会えないとかの付き合いをする間柄ではない。それなのに普通の家族のような距離を守ろうとしてきたのは、結芽だ。
「お父さんとは会えるでしょ」
 悠人は医師だ。それも研究者なので海外出張は多い。
 赤ん坊の頃こそ大学在学中になるので母親に見てもらっていたが、保育園に預けるような頃になると殆んど一人で育てていた。だからこそ院の課程を修了しても大学に残って研究を続けることしたのかもしれない。そこで出張が決まると、若葉の予定を確認し預けにきた。

 子供ができたと分かった時に、どうするかを相談した。若葉は洋裁の学校と和裁の先生についての仕事の掛け持ちで忙しかった。不安だらけの妊娠だった。しかし彼の答えは至って簡単。自分が育てるから産んでくれと。まだ二十歳にもなっていなかったのに。
 今でこそ業者と提携し注文を受けての仕事も増え、一年を通して働いていられるが、始めたばかりの頃は先輩の仕事を分けてもらうことも多かった。寝る間も惜しみ、針を刺し続けた。子供を育てる時間などないと思い込んでいた――。

 寂しかったと思う。
 母親だという人間が、同じ町内に住んでいるのに家族ではないと言われる。それでも節目ごとの行事に参加することは許された。もちろん全部というわけではないが、悠人が他の誰かと結婚をするまでだと思って我が儘を通した。
「お父さんのこと、お願いね」
「え?」
 結芽からの突然の言葉に、一瞬面食らう。
 どういう意味だろう。彼は結芽の親という立場を離れれば、もう関係のない人だ。
「え、じゃなくて。結婚してもしなくてもいいからさ。どっちかの家で暮らしてよ」
 でないと心配だし、連絡するのも一回で済むでしょと言っている。
 今更、何を言ってるんだろう。
「私はお父さんとは」
「だから!」
 言葉を遮られた。
「お父さんが悪いよ。プロポーズしないで、私を引き取って育てたんだからね。でもお母さん以外の人と結婚する気があれば、とっくにしてるでしょ」
 そして、ここまできたら誰も結婚に反対なんてしないでしょ、と結芽は言った。

 そうかもしれない。
 医学部に通っていた彼は、お針子なんかとは釣り合わないと言われ若葉は逃げた。でも当の悠人が誰とも結婚せず、臨床医にもならなかった。
 釣り合わないと言った当人はすでに亡く、父親は介護ホームに入っている。
 しかし……
「そうはいっても悠人にも選ぶ権利はあるわけだし、今さら同居するのなんて面倒だって思うかもしれないでしょ」
 そこで結芽は、にやりと表現するに相応しいような顔を見せた。
「お父さんはいいって。同居でも同棲でも、勿論結婚でもお母さんと一緒にいるって」

 やられた。
 何もかも、全部分かった上でやって来たのね。
「悠人。あなたには、もっと別の素敵な女性がいるでしょ。彼女はどうするの」
 若葉は知っている。彼を慕って、いろいろ世話を焼いてくれている人がいることを。
「あの人なら、私が遠ざけた」
 悠人の言葉よりも先に結芽が答える。しかし若葉は彼の言葉を待った。そして今度こそ彼が答えた。
「結芽が言ったことは本当だ。でも俺もちゃんと断った」
 ただ彼女が勝手にしているだけだと言い張って、なかなか言うことを聞いてくれなかったと言う。

「それでも許したんでしょ」
 彼女は若葉のところにも乗り込んできているのだ。若葉がいるせいで悠人は幸せになれない、とまで言った。
「違う。信じてくれ」
 結芽は、お茶を淹れてくると部屋を出ていった。古い家だ。台所にいても話は聞こえてしまうだろうが、あの子なりの優しさかもしれない。
「俺は弱かったよ。でも結芽に言われたんだ。若葉が本当に好きならちゃんと言えって」
 もう若くない。勢いもない。でも若葉以外の人と結婚する気もなければ、つきあうつもりもない。
 ぼそぼそと、悠人は本当に昔と変わらずに話す。
「莫迦みたい。女の方がよっぽど年とってるわよ」
 男の四十代は色気も増してくる年齢だろうけれど、女はそうはいかない。特に恋愛の話になると難しいことも出てくる。

「ずっと見てきたよ。二十代も三十代も。これからだって」
 だから、と悠人は続ける。
「一緒にいようよ」
 自分でも驚いたことに、涙が流れた――。

「着物?」
「そう。式はあげないの。お金が勿体ないから。でも」
 結芽はそう言いながら、運んできたお茶を飲む。
「お食事会っていうのかな。親戚集めて、お披露目をすることになったの」
 なるほど、そこで着物ね。
「おばあちゃんの着物はもらっていくよ。お母さんの若い頃のもね。でもその会には私だけの着物がいいな」
 簡単に言ってくれる。訪問着なら数ヶ月かけて作るものなのに。
「色留袖と訪問着、どちらがいいの」
 もう決めていたのだろう。即座に訪問着と返ってきた。
「明日、反物を見に行ってくる。一緒に行く?」
 うん、と嬉しそうに頷いた。

 食事会には若葉も出るのだそうだ。
 二ヶ月後には仕立て上げなければならない。他の注文もあるので、暫くは寝る時間はなくなりそうだ。
 それでも、こんな幸せなことはない。娘のために和服を誂える。和裁をしていて本当によかった。
 ひと針ひと針、心を込めて娘のために針を刺す――。
【了】

著作:紫草

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