『失意』


 昔、四月一日と十月一日は衣替えと呼ばれて装束を改めていたんだよ――。

「お母さん。衣替えってしたことある?」
 和田愛実は帰宅してきた母に、先日、高校で耳にした話をした。
「しないわよ。だって、いちいち面倒じゃない。だから一年中出しっ放し」
 こういう親だ。愛実に衣替えの習慣がなくても仕方がない。
 続けて季節の行事をすることがあるかと聞いてみた。
「お正月くらいかな」
 何よ、それ。我が親ながら、ちょっと呆れる。

 こんな情緒の欠けらもない親に育てられていなければ、先輩はもう少し愛実のことをちゃんと見てくれただろうか。
「お母さん。私ね、失恋しちゃった」
「あら。珍しい」
 母の言葉に、どうしてそう思うのかと尋ねた。
「欲しいものは絶対に欲しいっていつも言ってるじゃない」
 だから失恋なんて言葉を聞くとは思わなかったという。
 でも、人の心は欲しいと言って何とかなるものではない。思っただけで言えなかったけれど。
「彼女いるんなら、取っちゃえば」
 我が親ながら、とんでもないことをさらりと言ってのける。
「できないよ。彼女頭良さそうだし」
 きっと自分はタイプじゃない。
「頭が悪かったら駄目なの。そんなの分からないじゃない」
 母は、自分は勉強できなかったけれど彼氏はいたという話をする。こんな親を持って、初めて情けないと思った――。

 進学した高校では、どこかの部に必ず入らなければならなかった。愛実は比較的活動が少なくて、無理に参加しなくてもいい文学部を選んだ。月に一度だけ参加すれば単位はもらえるという、とても気楽な部活だった。入った時はほぼ帰宅部と化すだろうと想像していた。
 しかしその部活に日参するようになったのは、一人の男子学生がいたからだ。

 山名駿介、一つ上の高校二年生だった。
 まず見た目が好みだった。目が綺麗で、優しい話し方をする。登校中、急に降り出した雨の中、傘を貸してくれたこともある。あの時はただただ驚いた。
 そのことがきっかけとなり愛実は毎日部活に顔を出すようになった。日々通っているうちに五人しかいない男子生徒には名前を覚えてもらった。
 でももともと本を読むことなどないし、歴史にも興味はない。節句と言われても、桃の節句しかわからない。そんな自分に、文学部はハードルが高かった。

 彼が話すことも、殆ど分からなくて話に参加することはできない。
 盛り上がって話している何人かの女子を羨ましいと思うけれど、読んだこともない本の話なんかできない。
 それでも何とか会話に加わりたくて、お勧めの本はないかと聞いてしまった。激しく後悔したけれど。古典なら単純に読めないと言えばよかった。しかし純文学とかどうかと言われてしまって、タイトルや作家名を告げられた。愛実には聞いたこともない作品も、その時話をしていた者には有名な本らしかった。
 今さら、本は読まないとは言えなかった。

 次に全員が揃う時には、自分の読んでいる本か好きな本を紹介することが課題になっている。教科書以外の本を持っていない愛実は何か用意しなければならなかった。
 ついぞ寄ったことのない本屋に足を運ぶ。そこで悲しい現実を目の当たりにすることになった――。

 見てしまったのだ。
 彼、山名が女子と手を繋いで一緒にいるところを。

 よく考えたら、恋人がいないと思った自分が愚かだった。
 かっこよくて人気もあって、そんな人にどうして彼女はいないなんて思ったのだろう。自分が特別なんて、どうして思ってしまったんだろう。
 期待した分、落胆も大きかった。
 彼女は同じ学校の人だ。制服が同じ。でも文学部のメンバーかどうかはわからない。何せ女子は多い。二人が立っているのは古典の本を並べている場所だ。彼女が手にしているのは何の本だろう。
 二人が見つめ合いながら笑っている。

 ただ羨ましいだけではない気持ちが湧き上がる。
 どうして、そこにいるのが愛実ではないのだろうと……。

 少し近づくと話し声が届いた。
 やっぱり古典の話のようだ。愛実には一切分からない。もし知っていることなら、声をかけられたかもしれないのに。
 同じ高校に通っていても、成績には雲泥の差があるということなのだろうと思う。古典も純文学も愛実にはつまらないものでしかない。

『めぐみ』
 という言葉が聞こえた気がして、胸が高鳴った。振り向くと彼は彼女に話しかけているだけだ。
 聞き間違いだったのだろうか。でも違った。彼女の名前が『メグミ』だった。それで分かった。どうして入りたての一年に傘を貸してくれたのか。
 たぶん、彼女と同じ名前だったからだ。

 暫くすると、制服の話になっている。
 今日、話していた衣替えのことだ。大昔からある行事だとか。
 六月の衣替えといわれても、ぴんとこない。五月の終わりから夏服を着ているし、家で衣替えなんてしたこともない。
 服は一年中、クローゼットにかけてあるだけで気温によって着るものを選ぶ。季節を考えることなんてなかった。

 季節ってそんなに大事なのかな。
 彼女の言葉を聞きながら、ついそんなことを思ってしまう。
 だってめんどくさい。
 カレンダーは見るけれど、そこにそれ以上の意味を持つことはない。高校に入ってもそれは変わらないし、彼を知らなければ今も何も考えていなかっただろう。
 ここまで何も考えないで、ただ流されてきてしまった。つい苦笑いが浮かぶ。

「和田さんじゃない?」
 ぼんやりとしていたら、そう聞こえてきた。
 振り向くと、二人が愛実を見ていた。
「本を探しにきたんです」
 思わず、そう言っていた。
「見つかった?」
 彼のその問いかけには、まだと答えた。
 一緒に探そう、という言葉を待った。何もなかったけれど。
「じゃ。明日、学校で」
 二人は愛実に背を向けた――。

 季節で衣替えをするように、彼女を取っ替え引っ替えするような人じゃない。きっと、あのメグミさんは大事にされている。
 もう少し自分のために本を読んでみてもいいのかもしれないと思った。好きじゃないからと敬遠していたら、来年になったら部を辞めなきゃいけないってことになるかもしれない。それだけは嫌。近づけない人でも、せめて同じ部活のメンバーとして一緒にいたい。

 誰にも告げることのなかった恋は、少しだけ苦い思い出となって愛実の胸に刻まれた――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2018年6月分小題【衣替え】
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