『願い』 完全版


「いい男の子がいるのよ」
 娘にそう言った時、彼女は確かに笑った――。

 心に傷を持ってしまった継子。
 今年、三十になる。三年前、病気で片目を失った。それからは人と距離を置いて、独りで生きていこうとしているようだ。
 いい娘なのに――。

 桜庭(おうにわ)咲子が娘、紫織に会ったのは彼女がまだ小学生の頃だった。実の母親が出ていってからは、小さなお母さんになって頑張っていた。
 夫と知り合ったのは近所の医院。熱を出していた紫織を連れてきていた。その時、咲子も体調を崩し、どうにもならないと夜間診療を訪れていたのだった。
 咲子はインフルエンザではなかったものの、かなりひどい風邪を引いてしまっている状態だった。一方、紫織は中耳炎による発熱で耳の痛みを訴えていた。
 翌日、専門の病院に行くように言われていたが、父親の仕事が休めないからと数日後に行くと話している声が聞こえてきた。

『あの』
 熱が出ていて、あまり深く考えていなかったのだと今は思う。
『私が連れて行きます。中耳炎は早く診てもらわないと慢性化が怖いですよ』
 自らの知り合いが、慢性中耳炎で大学進学を諦めていた。こんな小さな子がそんなことになったら可哀想だ。
 桜庭にしても咲子が何の為にそこにいるのか、考えなかったのだろう。すんなりとお願いしていいですか、と頼まれた。
 点滴を打たれ、翌朝にはすっかり熱は下がったものの、職場には休むと連絡をし、そして彼の家に赴いた。

 前日の痛がっていた顔を思いだすと、その日は落ち着いているように見えた。それでも経験者としてはまだ痛いということを知っている。おそらく他人に会うということで我慢をしているのだろう。まだ三年生、健気だった。
「痛いよね。私も子供の頃に罹っているから知ってるわ。近所の耳鼻咽喉科を調べてきたから一緒に行こうね」
 玄関先で挨拶もそこそこに紫織を連れ出した。
 十分ほど、大きめの道路とは反対側に向かって歩く。金木犀の香りが街の中を漂っていた。手を繋いで歩きながら、良い香りねと語りかけた。おトイレに置いている芳香剤も同じだよと言われ、思わず笑ってしまった。
 辿り着いた個人病院には、評判のいい年配の医師がいると書き込みにあった。
 受付で父親からの委任状を出し様子を伝える。医師には紫織本人から説明ができた。早めに受診することは絶対と言われ、本人も頷いていた。翌日からは学校に行ってもいいと言われたものの、帰りに来るようにということだった。一週間ほど通院すれば大丈夫で、子供だけでもいいそうだ。
 その日は桜庭の家にいることにした。昨日まで全く知らなかった家族なのに、ほっておけないという気になったから。人見知りの咲子には天変地異の起こったような出来事だった。

 自分の部屋もありベッドもあるというが、紫織は居間にいたいという。
 布団はどこかと聞くと押入れだと。自分で敷こうとする紫織を慌てて止め、咲子が敷く。そして寝るようにいうと素直に横になった。
 眠るまでの間、母親はいないこと、祖父母は遠くにいるし年配なので来られないことを教えてくれた。母親は出て行った、と言った時だけ顔を歪めた。
 こんなにいい娘なのに――。

 それから何となく付き合いは続き、紫織からの願いを聞き届けるという形で結婚した。夫は優しい人で、可愛い子供とこの夫を残し家を出ていくということは考えにくい。少なくとも咲子にはできない。
 でも人はそれぞれだ。紫織の記憶には出ていった時の背中だけが残るという。
 夫の話によると今は別の人と再婚し、子供もいるらしい。ただその子が別れた人が産んだのかどうかは分からない。出て行く時の書類に「全ての権利を放棄する」という形を取ったので、今後彼女が関わってくることはない。教えてもらったのはそれだけだ。

 それから幸せという言葉しか知らずに生きてきたのに、三年前、突然夫が倒れた。余命三ヶ月。しかし問題はそれだけではなかった。
 主治医が紫織の顔を見て、病院にかかっているかと聞く。何の話だと思った。するとすぐに予約を入れるので診察をしようと言われた。
 あの時、夫は自らの命で紫織の病気を知らせたのだと思う。もともと彼女の目は斜視のような感じなのかと思っていた。傷つけたら可哀想だと思い、それまで聞いたことがなかった。今はそのことが本当に悔やまれる。もっと早くに医師に診てもらっていれば、その後の人生は全く違っていたことだろう。
 眼の神経にまで腫瘍が広がっていて眼球を取り出すしかないという診断。紫織と一緒に泣いた。命と引き換えとはいえ、若い娘が瞳を失くすなんて。

 その後、紫織は義眼を入れ職場に戻った。しかし受付からは外され事務職に異動し、とりあえず何事もないように見える。
 でも違う。心を閉ざした。たぶん好きだった人とも別れてしまった。いい娘なのに――。

 抗がん剤治療はまだ続く。
 今は入院することなく受けられるので、以前よりも負担は少ないがやはり影響は出ているのだろう。治療が始まると仕事以外は何処にも出かけなくなる。
 恋人はいなくてもいい、と言うが淋しいに決まっている。入院が重なったことで父親と同じ病室に入ることができ、それだけは良かったと話した。
 夫も娘の病状を見ることができて、将来の目処が付くことで安心して旅立っただろう。

 そんな時だった。
 職場のコンビニによくやって来る青年に気づいた。こんな男の子が紫織のお友達になってくれたらいいのにと思うくらい、感じのいい人だった。
 いつしか彼も咲子を認識してくれて、とある映画館でばったりと遇った。
 その偶然を紫織に話す。そして今度、一緒にご飯に誘ってみようよと提案した。
「偶然が重なることは滅多にないから、その偶然が味方をしてくれたらね」
 と返ってきた。

 ところがその偶然はなかなか訪れなかった。
 ただ待った。紫織の生活に変化がない以上、楓山(あきやま)との邂逅を待ち続けた。そして、遂にその日はやってくる。
 咲子の仕事が終わる時間、たまたま近所にいたからと紫織が店にやってきた。そこに楓山が来店したのだ。
 久しぶりに心臓がドキドキした。失敗してはならない。彼に不審がられないように、紫織の印象を悪くしないように、そして店長にも気付かれないように声をかける。

「では、お供致します」
 その一言をもらった時は、歓喜して踊り出しそうなくらいだった。
 彼は表面からだけでなく、内面もとても良い青年だった。今は一人暮らしというが、よく妹さんが来るらしい。
 それから一年、お友達という良い距離を保った関係は続いていて、これからも続いていって欲しいと思う。ただ折角だから恋人くらいには格上げしてもらいたい、という親心も知ってもらいたいものだ。

 仏壇に掌を合わせる。
 夫に向かい色々な報告をしていると紫織や、息子の天玄に笑われる。それでも楽しいのだから良い。
「天玄も早く彼女の一人も連れて来て。お父さんに報告するから」
 嫌だよ、といういつもの返事を聞きながら、やっぱり、
「お父さん、聞いて」
 と話しかける。

―お母さん。私の目のこと、彼に話した?
 紫織から電話があったのは、残業で遅くなると言っていた日の夜だった。
「いいえ。聞かれたことないし、話したこともないわ」
―そう。今夜、誘われた。あとで行ってくる。
「込み入った話かしら」
―分からないけれど、会って話したいことがあるって。
「正直に言いなさい。病気のことも、治療のことも。それで駄目になっちゃったら一緒に飲みましょ」
―うん。ありがと。

 楓山が何故、紫織の目のことに何も触れなかったのか。それは分からない。今は、紫織本人の言葉を全て受け止めて欲しいと願うのみだった――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2020年10月分小題【義眼】
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