『巣立つ』 完全版


「結婚?」
 その言葉は、その人物の言葉としては一番程遠いものとして受け取った。

 ファミレスのボックス席。
 義理の息子楓山流禮と、実の娘魅音と三人での食事会。今でこそ紛れもなく家族として会っているものの、最初は綱渡りのような毎日を送るスタートだった。

 再婚して暫くした頃、魅音が知らせてきた。流禮の顔に殴られたような痕があると。
 まだ手探りのような新婚生活だった。よく知りもしない女と結婚したのだから仕方がないが。

 人見知りとは違う。
 年上を恐れているような雰囲気を持っている子だった。通常、再婚で新しく親ができても「お父さん、お母さん」と呼ぶことは滅多にないと聞いていた。実際、魅音はお母さんと呼ぶことはない。
 でも流禮は最初から、自分をお父さんと呼んだ。大学生なのだから分別もあるだろうし単純に良い子だと思ったが、後から考えれば彼なりの防衛だったのだろう。
 母親から暴力を受けない為に必要なことは何か。良い子を演じることだろうな。
 初めて殴られた痕を見た刹那、怒りがこみあげ血の繋がりを超えた存在の息子を感じた。楓山敏弥(としや)、再婚した意味は、この子を守る為であったかと思い至った。

 そんな子が家庭に夢をもつわけがない。

 暫くすると、三人での食事会が恒例となっていく。
 そこでは本音に近い会話もするようになっていた。いつ頃だったろうか。
 何故、再婚したんだと尋ねられたことがある。
 その時、初めて魅音の話をした。流禮に恋した彼女のことを。
 二人とも複雑な表情を見せていたな。
 しかし、それを伝えても流禮の魅音に対する態度は変わらず、いつしか妹という存在を受け入れていたように見えた。

 妻は依存型だ。
 主婦といえば、世の中では通る。
 だが彼女は何もしない。それでは主婦の人たちが怒るぞというくらい、気が向いた時に好きなことだけをする。
 当初はいろいろ話し合って、譲り合うことや手伝うことを決め、家族四人で上手くやっていこうとした。流禮に暴力を振るっていると知るまでは。
 魅音は彼女を嫌がり、近づかなくなった。流禮に手をあげることだけは、絶対に止めるように言い、他はなし崩し的に楽をするようになってしまった。

 流禮が家を出る時、短い時間でもいいから仕事をするように言った。最初は嫌がっていたが、駅前のクリーニング屋で受付の仕事を始めると、思いの外、合っていたようで続いている。
 こちらとしては、それだけでいいと思うようになった。流禮をストレスの捌け口にしなければいい。

 あの子にとって自分以外の人間は、その辺に転がるゴミ箱と同じだと言ったことがある。根底にあるのは、母親の存在だ。
 その彼が変わった。一体、誰のために――。

 少し前。魅音が就職して三年目になるという春、突如、辞めると言い出した。
 会社に不満があるのではなく人間関係も良好らしいが、ただ辞めるとだけ。すぐ流禮に伝えた。
 すると魅音を呼び出し、何があったのかと問い質す。

 魅音の答えは簡単だった。
『行きたくなくなった』
 流禮が尋ねる。
『じゃ、他に何がしたいんだ』
 当然といえば当然かもしれないが、魅音はその問いに何もないと答えた。
 今でも忘れない。その時の流禮の言葉と絆の意味を――。

『じゃ、俺もお前と家族やめるよ。面倒だから他人になろう』
 言葉の意味はすぐに理解できた。でも真意をくみとることはできない。中華店の個室にいた我々の間に、沈黙して語らない時が長く流れた。
 魅音が泣きそうな顔をしていたことを覚えている。あの子も変なところで意固地だから、決して折れるということはなかった。

『家を出ろ。その上で仕事を辞めると言ったら認めてやる』
 恥ずかしいことに、ここで初めて流禮が言おうとしていることに気づいた。
 彼は、魅音に仕事を続けるように説得する心算だと。高卒で就職したところは一年もたなかった。今の職場は合っていると思う。
『お前が言ってるのは住む家があって、飯が食えて、全然困らない奴が簡単に言える戯言だ』
 魅音は何も返せなかった。ただ。
『分かった。その代わり、お兄ちゃんの住所教えて』
 そんな頼みごとをした。
 流禮の住所は誰にも教えないことが約束だ。母親にも、魅音にも。
 最寄駅で予測することはできるだろうが、調べたりしたら引っ越すと宣言された為に、魅音も後をつけたりはできなかったのだろう。
『住所聞いてどうする。来ても上げないよ』
 冷たい言葉だと思うが、流禮にとってマンションはシェルターだ。たとえ魅音でも知られたくはないだろう。
『いいよ。行かないから』
「やめなさい。知れば行きたくなる。知らなくて行けないのと、知っていて我慢するのでは全然違うぞ」
 そう言ってやると流禮が、そうだと乗ってきた。

『教えない。こうして外で会えばいい。ちゃんと時間は作ってやるから』
 魅音としては面白くない。しかし仕事の継続と引き換えにすることではなかったようだ。

 今の二人は兄妹という感じではなく、我が儘を聞いてくれる友達という雰囲気に見える。
 流禮のなかで少なくとも魅音だけは特別な場所に意識されていると敏弥には分かる。それでも魅音は不服なんだろうな。
 そんなことがあって、魅音は辞表を出すことなく通勤し、まだ一ヶ月経っていなかったが、食事会をすることになった。
 最近では個室を予約しにくくなっていて、この日は珍しく近所のファミレスへ出かけた。
 そこで流禮の結婚宣言を聞くことになる。正確には違うかも知れないが、彼から結婚の二文字を聞いたら、宣言したも同じだと判断した。

『彼女が今度、父さんに会いたいって言ってる』
 あまり見せたことのない、はにかんだような表情をしながら、ただ結納とか式とか挨拶とか、全部なしだからと言い切った。
「彼女や、彼女のご両親はそれで了承してくれるのか」
 思わず、もう決まったことのように聞いてしまったが、良かったのだろうか。
『お父さんはいない。お母さんと弟が一人。みんな分かってくれてるから』
 流禮の落ち着き方から、きっと必要な話は終わっているのだと感じた。

 あの虐待を受けていた子が、完全な自立を果たす。
 感慨深いな。就職と同時に家を出ると言った時、本当なら離れていく子だった。
 無理矢理、マンションの頭金を出して恩を売った。魅音の為だけでなく、敏弥にとっても大切な息子になっていた。燕の子が、毎年同じ場所で産卵し巣立っていく。流禮にとって敏弥がそんな場所であって欲しいという願望だ。

 その時、魅音の様子を見誤った。
 流禮に恋した女の子は、妹になって幼い恋は卒業したものだと思っていた。
 しかし、あの子はまだ彼を想っていた。
 誰に話すこともない、苦しい恋を一人続けていたのに――。

「魅音。一緒に会うか」
 親戚付き合いをしないのなら、最初で最後の機会になってしまうかもしれない。それだけだった。
『いや、悪いけど父さんだけにしてくれ』
「いいじゃないか。魅音にはすぐに帰ってもらえば。それに誕生日プレゼント贈るなら、彼女さんも一緒にいた方がいいんじゃないのか』
 どうせ彼女に選んでもらうんだろ。そう言ったら、まあねと微笑む。

 優しい笑い方をするようになった。
 それから暫くして、恋人桜庭紫織と、その家族に会うことになった。結局、一度に済ませてしまおうと妻を除く全員が揃うことになる。
 ホテルの一室をとり、食事をセッティングしてもらった。
 紹介が済み、食事が済み、そして魅音にそろそろ帰ろうと声をかけるところだった。

『反対』
 誰もが、一瞬の間を待った。
『どうせ、もう決まったことでしょうけど。私の気持ちなんて関係ないし。ただ嘘をつきたくないの』
 魅音の聞いたことのない低い冷たい声が響く。
『祝福なんてできない。大反対!』
 それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。

『ごめん』
 沈黙を破ったのは、流禮の謝罪の言葉だった。
「申し訳ありません」
 敏弥も慌てて頭を下げた。
 しかし、すでに暗黙の了解だったようだ

 それから流禮は、魅音との連絡を絶った。時間を作ってやるという約束を反故にし、彼女の心の闇を知りながら――。
 どちらが悪いというわけじゃない。彼が人との絆を繋ごうとしてくれたことの方が大切だった。

【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2021年5月分小題【燕】
『泪』  Nicotto創作 List 『 』
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