『血族』1 完全版


 最後通牒になった父の言葉。
「そう思うのなら出ていけ」
 松本芽美は、泣くこともなくリビングを出ていった。
 そして、その日から父はあからさまに芽美を排除するようなことを言ったり、やったりするようになった。流石に母が可哀想だと言ったけれど、父は許さなかった。
 芽美は、生活のすべてを取り上げられ、食事を摂るのは外。外食しているのか、お弁当を買って食べているのかは知らない。お風呂にも入ることができない。銭湯など近所にはない。洗面所だけは使っていても何も言うことはなかったけれど、芽美と一緒になることはなくなっていった。
 彼女は早朝に家を出て、深夜になって帰ってくる。もう出ていくのは時間の問題だろうと思われた。

 高野祥華、二十二歳。大学院に進んでいた。
 芽美も何処かの大学に通っていた筈だが、卒業したという話は聞かない。だからといって祥華のように院に進学するような勉強をしているとも思えなかった。
 暫く会っていないな、と思っていた昼下がりだった。

 松本家の父がやってきた。
 日曜日だ。夕方には店を開けるだろうから、それほど時間はないと思う。父に来訪を告げると、もうそんな時間かと呟いた。
 ということは、父が呼んだのか。
 二人がリビングに入ったところでコーヒーメーカーに豆を入れる。

 父たちの話はやはり芽美のことだ。
 松本の父は最近では電話にも出ることはなくなったと言う。
「申し訳ないが、今は居心地が悪いだろう。殆んど在宅していない。もう住所を移しましょう。成人なのだから独り立ちするのもいい。しかし、それはこちらの問題ではない」
「そうですね。長らく置いて戴いて、感謝します。今日は車で来ています。荷物を運び出します」
 そう言ったところで父は芽美の部屋を案内した。
「瑛里華はいるか」
「今はお習字塾よ」
「なら、祥華がお相手をしていてくれ。母さんを呼んでくる」
 最近、母は体調を崩すことが多い。今も寝室で休んでいた。

「松本さん。お久しぶりです」
 後ろ姿に声をかける。
「元気にしているか」
 彼は優し気な声音で応えてくれた。祥華は返事ではなく、あえて首肯する。
「麻美がいつも嬉しそうに話してくれるよ。今度、店に来たらいい。ご馳走するから」
「はい。伺いますね」
 そんな話をしていると、二人が戻ってきた。

「段ボールが必要なら持ってきますが、たぶんスーツケースと紙袋で足りると思います」
 挨拶の後、母がベッドの下に入れてあるスースケースを出す。
 この部屋には殆んど物が増えていない。
 彼女は着た時と同じスーツケースに季節違いの衣服を入れていたが、そこに今出ている物を入れてしまえば、あとは化粧品と学校のものだろう。本があるだけだった。
 母の話では、大学はもうとっくに退学をしていて、今は居酒屋で働いているという。
 その話を特に驚くことなく聞いている松本の父は知っていたのだろう。どちらかといえば、父と祥華の方に動揺が走った。
「芽美はこちらで何をしたかったんでしょうね」
 松本の父が呟くように言う。
「私にもわかりません。どんなに厳しい言い方をしても、泣くわけでなく、ただ聞いている。行儀作法をと思って教えても覚えようともしない」
 何を考えているのか、まるで予想のつかない子だと父は続けた。

 松本の父が荷物を持って出ていくと、今度は鍵屋が来た。
 マンションの鍵はオートロックの関係で出入りの業者が交換する。つまり父は芽美が持っている鍵では、もう家には入ることができない状況を作り出そうとしている。
「芽美には連絡してあるの」
「母さんがメールをした。それだけだ」
 切り捨てられた娘。
 何を求めて来たのか、何も言わなかった芽美は、最後は締め出されるという仕打ちを受けることになった。
「私があちらの家に行けば、あの子ももう少し心を開いてくれたのかな」
 思わず、そんな言葉になった。
「やめてくれ。祥華がいなくなるなんて、想像するだけでぞっとする」
 そう言って父は部屋を出ていった。

 暫くしてオートロックのチャイムが鳴った。モニターに瑛里華の姿が写る。
 慌てて部屋を飛び出した。
 そうだ。瑛里華も締め出されてる。
『鍵、開かなくなっちゃったの』
「ごめんね。お父さんが鍵を交換したの。開けるね」
 開錠のボタンを押して答えると、そのまま玄関に向かう。
 外に出てエレベーターから出てきた瑛里華に、お帰りと声をかけ改めて謝った。
「私も知らなかったの。芽美の荷物、なくなったよ」
 あちらのお父さんが持っていったと伝えると、可哀想だねと言った。
 そう。
 可哀想よね。
 どんな形であれ何年も一緒に暮らしてきたのに、最後に一緒に食事をすることもないなんて。
 そんなふうに素直に言える瑛里華は優しい。
「お帰り」
 父が顔を出す。
「ただいま。芽美ちゃん、帰っちゃったんだってね」
「あゝ。悪かったな。もう一人で部屋を使えるよ」
「そんなの気にしてないよ。さよならを言えないままだったから」
 そう言い残し彼女は母のいる寝室へと入っていく。
「瑛里華は優しいね」
 祥華も、そう言いながら自分の部屋に戻った。

 置きっぱなしにしてあったスマホに不在着信のアイコンが出ている。
 兄隼人からだ。コールバックする。
―祥華か。
「お久しぶり」
―元気にしてたか。
「いつもと同じ。それより」
 と言ったところで、分かってると返ってきた。
―お父さんが芽美の荷物を持って帰ってきた。本人は納得したのかな。
「お父さん同士で話し合って、運んだの。だからまだ知らないかも」
―帰って荷物がなくなってるって分かったら、どうするかな。
「鍵を替えてしまったの。もう入ることができない」
 そう言うと隼人は言葉を失っている。当然よね。自分もこれでいいのかなと、まだ思ってるし。
―そっか。最近さ。麻美が祥華と一緒に暮らしたいって言うんだ。そこに芽美が戻ってきたら、少し荒れるかもな。
「えっ!?」
―芽美のことは分かった。じゃ、またな。
 祥華が絶句しているうちに、電話は切れた。

 麻美が荒れる。まさかね。
 しかし、あの子も芽美のことを我が儘だと思っている。このまま戻るのか、独立するのかは分からないし、もう祥華にはどうすることもできない。
「大丈夫かな」
 何となく気持ちが重くなった。
 これまで血のつながりがあると言っても、やはり芽美は異分子だった。いつもお客様がいるような感覚で、常に緊張を強いられているような雰囲気がある。
 母の具合が悪くなったのも、芽美との関係が上手くいかないことからの疲れからだった。にもかかわらず彼女は看病もしない。お金を預けてあるということもあって、お小遣いがなくなると無心にくる。
 言葉遣いや所作は、日々の暮らしのなかで身についていくものだ。
 しかし彼女はその躾にも背を向ける。頑なに拒む理由は、必要ないという言葉だけだった。

 その夜。
 彼女は深夜に帰ってきた。鍵は開かない。
 管理人さんを起こし、モニターを使って彼が連絡をしてきた。最初に気づいたのは祥華だった。
『ごめんね。こんな時間に』
 当然の前置きだ。午前三時になろうとしていた。
「いえ。どうされましたか」
『芽美さんがね。入れないから開けてくれってきかないんだよ。どうしたらいいかと思ってね』
 鍵があって開かないということは拒否を意味する。
 管理人さんはこれまでも同じような状況を経験したことがあったのだろう。
「父を呼びます」
『うん。そうして。ごめんね』
 何度も謝らないで下さいと言って、一旦モニターから離れた。
 まるで蝸牛のようだ。背の貝を失うと生きてはいけない。ここ数か月の芽美には、まさに貝を取り上げられるような感覚だったのではないだろうか。
 モニターの奥に、彼女の声なき声の叫びのような視線が在った。
 父はすぐに下りて行ったが、芽美を連れて戻ることはなかった――。
【To be continued.】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2020年6月分小題【生物(蝸牛) 】
『姉妹』 nico-menyu 『血族』2
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