『ささめき』

 どこからか、水の流れる音がする。
 その音は、初夏とは思えぬ陽射しを少しだけ和らげてくれる。

 どこかに小川でもあるのだろうか。
 それとも、どこかの蛇口でも開いたままになっているのか。

 陽射しを避けるように、陰を探し路地を歩く。
 石畳。
 その先に見える、石垣。

 私有地かもしれない、と思いながら壁の一部を切り取って作られた木戸を抜ける。
 そこに在ったのは、新緑あふれた木々。
 そして小川。
 水流の音は、ここから聞こえていたみたい。

『誰だ』

 振り返ると、白馬に乗った王子様…
 な、わけがない。
「申し訳有りません。水の音に惹かれて、入り込んでしまいました」
 声のした方に頭を下げ、許しを請う。

『今日は暑いからな。よかったら、涼んでいけば』
 その言葉に、初めてその声の主を見た。

 これは、夢だ。
 だって、いつも見ている夢の彼が…。
 夢でしか逢えない彼が、そこに立って笑っていた。

「夢」
『は?』
「これは夢よね。私の言葉は全部、なかったことになる。 誰に知られることもない」
 そう言ったら、彼の瞳が私を映すまで近づいてきた。

 胸の高鳴りも、息苦しい程の視線も、夢だと思えば恐くない。

『残念。オレは実体。貴女の夢に出る趣味はない』
 余りの驚きに、言葉を失った。
「でも、いつも夢に出てくる…」
『じゃ、最近流行りの前世ってヤツで遇ってんのかもな』

 そう言って笑ったその人は、やっぱり夢の中の人と同じようで、何も言葉が出てこなかった。

『暑いから、そんな幻みたいなことも起こったのかも。来いよ。冷たいもんでも出してやるから』

 ささめき…

 これは、やっぱり夢。
 どんなに何を話されても、覚めてしまう夢の続き。
 夢は必ず覚めるから、だからいいよね。
 今だけは甘えても。

「じゃ。お言葉に甘えて失礼します」
 そう言ったら、こっち付いてきて、と背を向けられた。

 まだ覚めないで。
 もう少し、覚めないで。
 いつもの夢でいいから。あとで覚めてしまってもいいから。

 ささめき…

 ワタシ、貴男が好きなの ――。
【了】

著作:紫草

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