その年の秋、吉日。
花音は花嫁御寮となった。
地色の黒が見えない程の京友禅の大振袖と、角隠しと鼈甲の簪。
ぬけるような白い肌に、朱の着物は似合っていた。
仲人としてやってきた朝倉公爵夫妻が、綺麗だと絶賛していた。
相手も、朝倉家の養子になったので何の心配もいらないと説明する。
祝言の席には、姉小路家として父と母、そして孝彌が呼ばれた。
花音は、いつものように俯いたまま何も云わなかった。
泣くこともなかった。
最后に姉小路の門を出る時に、少しだけ足を止め「ありがとう」と囁いた。
その声は誰に届けられたものだったのか。
父母は親へのものだと思ったし、孝彌は自分に向けられたと思った。
少し離れた所に立っていた孝哉には聞こえない声。
孝之輔は、見送りながら「伝えておくよ」と声をかけた。
そして数年、一度の里帰りもないまま時は流れた。
孝彌は時折、朝倉家に出向いていたが、帰ってきても何かを話すことはなかったし、皆も聞くことはなかった。
何故なら姉小路でも孝之輔が結婚し、花音の話題は次第に減っていったからだ。
母は、孫の面倒を見ることが嬉しいらしく忙しい日々を送る。
嫁にきた義姉は、孝彌より年下の幼妻だ。
それでも続けて二人の男の子と一人の女の子を産んだ。
今では、花音がこの家で暮らしたことを憶えている者の方が少ないように孝哉は感じる。
孝彌も絵の発表を辞めてしまい、最近は注文される物だけを描くようになった。そこに花音の姿はない。
こうして時は流れてゆく、ゆっくりゆっくりと。
あれ程盛んだった鹿鳴館も蔭りが見え始め、鹿鳴館の華と呼ばれた方々も、いつしか足が遠のいていった。
花音も、しばしば現れては何枚かの写真を撮られていたようだったが、名を残すことがないため飾られることはなかったかもしれない。
花音の姿を見られるかも、という理由だけで孝彌や孝哉が舞踏会に参加しているとは思わない女性たちは、我先にと二人に声をかけてくる。
ドレス、髪飾り、そして宝石。
どれをとっても高価なものばかりだったが、花音の美しさには叶わなかった。
やがて鹿鳴館も華族会館に払い下げられ、花音との縁は断ち切られた。
孝彌は再び絵筆を持ったが風景画専門に戻ってしまい、朝倉家へ出向くこともなくなった。
そして孝哉は、後に日清戦争と呼ばれる戦いへと出征してゆくのだった。