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♪カラ〜ン
耳に心地好い、鈴の音が店先にまで届いた。
『いらっしゃいませ』
一歩入ると、マスターの低音が店内に響いた。
沢田凪は、約束していた場所への道を間違えたようだと気付いた。
普段なら、単に引き返せばいいと思っただろう。
しかし、それはできなかった。
何故なら、そこには想い出のなかにある名前と同じカフェがあったから――。
凪の記憶から、二年前の出来事が引き出された。
北の街。
雪国の、鈍色(にびいろ)の空は今にも雪が舞いそうな雰囲気だった。
そこで入ったのが、ペンギンズカフェという小さいけれど、垢抜けたオシャレな店だった。
Penguin's Cafe.
この店の前には、カタカナではなくアルファベットで同じ名が刻んであった。
「あの、ちょっといいですか」
凪は、カウンターの中にいるイケメンマスターに声をかけた。
「はい。お待ち下さい」
彼の声がそう言うのを聞き、
「あ。違うんです。注文じゃなくて」
そう言った時には、マスターは凪のテーブルの脇に立っていた。
「何でもいいですよ。お話があるんですよね」
店は混んでいた。
凪は聞きたいことを聞いてしまおうと、話し始めた。
「こちらのお店はチェーン店なんですか」
一瞬、マスターの眉が動き次に、それは見事な笑みに変わった。
「何処かで、ペンギンズカフェに出会われましたか」
凪は頷いた。
あの北の街に在った、女主人の淹れてくれた美味しい珈琲の話をした。
「そのお店も、ペンギンズカフェって名前だったんです」
マスターは、静かに頷いた。
そして向かい側に座ると顔を寄せ、小さな声で話してくれた。
「ペンギンズカフェはチェーン店ではありません。ただ本店のオーナーの気持ちに賛同する者たちが、様々な場所でそれぞれのお店をオープンさせているんです。不思議なお店たちです」
そこで彼は、一枚の写真を胸ポケットから取り出した。
そこには人だけではない、不思議な空間が写っていた。ただ後ろに写るのは、確かに入ってきたこの店の前だ。
「お客様が、そのお店に入ることができたのなら、きっと貴男にとっての運命の歯車が動き出したのでしょう」
彼は、そう残してカウンターへと戻っていった。
凪は、綺麗な青い花のカップを手に取った。
純粋に、紅茶だけの香りが凪自身までを取り巻くように香る。
運命の歯車。
そうなのかもしれない。
あの店で待ちぼうけをくわされて、凪は一人で珈琲を飲んだ。美味しくて、待っている時間を忘れさせてくれるような、砂糖を入れていないのに、甘く感じる珈琲だった。
そして待ちぼうけをくった彼女、原口沙柚と三度出逢ったのは、珍しく降った雪が残る春を待つ街だった――。
雪で新幹線が止まり、駅で遭遇したのだ。
凪には決めていたことがあった。
もしも…
もしも、もう一度出逢うことがあったなら、何を聞くよりも先にプロポーズしようと。
そんな物思いに耽っていると、扉の鈴が鳴った。
顔を上げる。
マスターの『いらっしゃいませ』という言葉に微笑みを向けた後、彼女はこちらを向く。
そして今度は真っ直ぐ歩いてきて、さっきまでマスターのいた場所に座る。
「ここもペンギンズカフェって言うのね」
凪の飲む紅茶を見て、同じものを頼んだ後、彼女はそう言った。
「急に待ち合わせ場所変更なんてメールくるから、焦っちゃった。迷子にならなくて、よかった」
「あゝ あとで面白い話、聞かせてやるよ」
凪のその言葉に、沙柚はいつものように黙って頷いた。
このPenguin's Cafeに、新しい常連さんができるようだとマスターは胸に仕舞った写真に手を添え思うのだった――。
【了】