「ある夫婦の愛のかたち」


 「大海人さま!大海人さまっ!!」
 宮殿の回廊を浮かれ足で歩いていると、大海人皇子は聞き慣れた声に呼び止められた。
 体が反射的に縮こまる。気づかない振りをして通り過ぎたいが、そんなことをしたら後々どういう仕打ちが待ち受けているのかということも、彼は十分すぎるほどに理解していた。
 大海人は引きつり笑顔で、声のするほうに顔を向けた。
 「や……やぁ、額田」
 そこに立っていたのは、彼の妻の一人である額田王であった。
 きりっと引き締まった眉に、見るからに意志の強そうな瞳。宮中でも一、二を争うほどの美貌を持ったこの女性は、「怒らせたら怖い女」部門でもつねに首位を独走していた。
 「なんだかとっても楽しそうね。何か嬉しいことでもおありになって?」
 顔はにこやかにしているが、その目の奥がキラリと光る。
 大海人の片足が、ほんの一寸ばかり後退りする。顔が引きつっているのが自分でも分かった。
 このまま回れ右をして走って逃げ出し……たら、間違いなく殺されるな。とりあえず、まだ命は惜しいはずだろ、俺。
 「そ、そうか?仕事上がりで清々してたから、そういうふうに見えたのかもしれないなぁ」
 「ふーん……」
 あ、やっぱり納得してないぞ。さすがにちょっと苦しかったかなー?
 実をいうと、大海人は今日、新しく妻として迎えたかじ媛娘のところに顔を出すつもりであった。それが、無意識のうちに足取りを軽やかにしてしまったのだろう。かじ媛は控えめで大人しく、額田も決して嫌ってはいない。それでも、嬉々として「他の女のところに行く」と言えば、彼女の山のように高い自尊心が許さないはずだ。
 額田は少し考える素振りをした後、大海人に聞いてきた。
 「今日は私のところに来てくださるわよね?」
 「えっ!?」
 大海人の声が思わず裏返る。自分の声の大きさに驚き、慌てて口許を押さえたが、心臓が尋常じゃないほどに大きな音を立てていた。
 かじ媛には、今晩彼女の元に訪ねる旨をすでに伝えている。若くて初心(うぶ)で、大海人を心から頼りにしている彼女に「今日は行けなくなった」とは、あまりにも可哀想すぎる話だ。
 ……が。
 「あら、何かご予定でも?」
 再度、額田の瞳が光った。今度は顔が笑っていない。
 こっ……怖いよ、額田ちゃん……。
 「……いえ、伺わせていただきます……」
 どう足掻いても額田には逆らえない男、それが大海人。ガックリと肩を落とし、泣き出しそうな情けない顔をしている彼の面前で、額田が勝ち誇ったようににっこりと微笑んだ。


 思いもよらない騒動が額田の身に降りかかったのは、それから間もなくのことだった。
 額田の屋形。心地よい風が室内を吹き抜ける宵闇。蝋燭の炎がかすかに揺れる。
 その蝋燭の前で向かい合って腰を下ろしているのは、屋形の主・額田とその夫・大海人である。大海人がうつむき加減でボソボソと何か話した後、額田の表情が一瞬にして、驚きと怒りで蒼白になった。
 「な、な、な、なんですってぇーーーっっ!!!??」
 屋形中に額田の絶叫が響き渡る。その大声に比例して、大海人の逞しい体がどんどん縮こまっていった。
 「なんで私が葛城さまの妻にならなきゃいけないのよ!? っていうか、なんであなたがそれを許可するのよ!? そんな権利があなたにあって?そんなに私のことが嫌いなのっ!!?」
 大海人の胸倉を掴みかかり、今にも殴らんばかりの彼女に、大海人は必死で弁明をする。
 「ま、まさかっ!そんなはずないだろ、俺がお前を嫌うなんて有り得ないって!! 立場上、そりゃあ妻はたくさん娶ってるけど、一番愛してるのはお前だから!本当に、絶対に、誓って!!」
 その言葉を聞いて、額田は少しだけ安心したようだった。掴んでいた手をほどき、もといた場所に座り直す。
 大海人はホッと息をはいて、乱れた胸元を軽く整えた。
 「じゃあ何故、私は葛城さまのところに行かなきゃならないの?あの人が私を慕ってるなんて話、聞いたこともないし……」
 「いや、実はさ。兄上の妻たちは蘇我系ばっかりで、巫女としての能力がある女人が一人もいないんだよ。ゆくゆくは大王になるわけだし、そうなった時に、やっぱり妻の中に巫女的能力がある人間がいたほうがいいだろうって。お前なら母上の信頼も厚いしさ」

 葛城皇子から今回の打診があったのは、一昨日のことだった。
 葛城の「額田を譲ってほしい」という台詞に、大海人は自分の耳を疑った。額田には言えずにいたが、葛城は額田のことをあまり快く思っていなかったのである。理由は特になく、ただ「なんとなくイラッとする」ということらしいが、大海人に言わせれば、人を痛めつけて楽しむ性質を持ち合わせている二人なので、映し鏡で自分を見ているようで不愉快なのだろう。
 「あのー、それは兄上の心からのご所望でしょうか……?」
 大海人はおずおずと訊ねてみた。すると、葛城は眉間にしわを寄せて険しい顔を見せた。
 「そんなわけないだろ。俺だってやだよ、あんなおっかない女を妻にするなんて。だけど、俺は蘇我系の女人しか妻にしていないだろ?巫女の役割を担う人間がいないわけだ。大王になる暁には、それではまずい。そしたら母上が、“大海人に頼んで額田を譲ってもらいなさい”とおっしゃられた。もう決め付けも同然の言い方だったから、俺も反論できなかったんだよ」
 自己中心的で、こうと決めたら絶対に考えを曲げない母上が絡んでいるとなると、大海人ももはや断ることはできない。無言でうなだれるしかなかった。
 そんな大海人に申し訳なく思ったのか、葛城は彼の両肩をガシッと掴み、強く言い放った。
 「安心しろ。どんなことがあっても、俺は絶対にあの女とは床を共にしない。したくもない!するもんかっ!!」

 ……という会話があったことは、もちろん額田には言えないが。
 「母上たっての願いでもあるんだ。俺が反論できないのは、お前だって分かるだろう?」
 納得できない話ではあるが、葛城・大海人の母親であり現大王でもある宝皇女が関わっている以上、額田ももはや抵抗できない。諦め半分で大きな溜息をついた。
 「大王さまがおっしゃるのであれば、仕方がないわね……」
 そう呟いた横顔は、とても寂しそうだった。そんな彼女を見て、大海人の胸がギュッと締めつけられたように痛んだ。
 ……あぁ……やっぱり俺は、この女のことが好きなんだなぁ……。
 そして、額田の小さな肩をそっと引き寄せ、両腕でしっかりと包み込んだ。額田は大人しくそれに従い、大海人の胸に顔を埋める。
 そのままの状態でしばらく経った頃、額田がポツリと呟いた。
 「離れても、私はずっとあなたを愛しているわよ」
 「……うん」
 大海人の両腕に、わずかに力がこもる。
 「十市の顔もたまには見に来てね」
 「うん」
 「夫婦じゃなくなっても、気に障ることがあったら殴ったり蹴ったりするわよ」
 「うんっ♪」
 ……気のせいかしら?“殴る蹴る”の言葉に、一番嬉しそうに反応したみたいだけど……。
 きっと私の思い違いね、と、額田は小さく首を振った。


 その後、額田は葛城の妻となった。しかし、もともと反目し合っていた二人のこと、顔を合わせてもろくな会話もせず、とても夫婦とは言いがたい状態であった。
 そんな葛城の態度が不愉快極まりない額田は、ことあるごとに大海人を呼びつけて、口約どおりに彼を痛めつけてはストレスを発散する……という有様だった。大海人をいたぶる額田は、葛城の前とは違って、とてもいきいきと輝いて見えた。
 ……そして、額田にいたぶられる大海人も、とても幸せそうな表情をしていた……。
-結-
著作:深雪様

 このお話は 「妻わずらい」 の続篇で、 「恋ひわたるとも」 のギャグバージョンとのことです。
 面白いですよ〜。是非、ご一読を。

 イラストにはモデルはいない、と。
“名もない一采女が春の訪れに喜ぶ直前…みたいなイメージ”とのことです。
 でも、こうして壁紙にすると、野にラフな感じで出てきた額田にも見えてくるから不思議です。
紫草 拝

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