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『月明かりの椛の下で』1

 言葉に飢えている。
 学校へ行っても、バイトに行っても、ただ、その場の乗りだけで言葉を使う日々。TVに映る会話もラジオから流れる言葉も、常に人を笑わすようにできていて、それを否定しようものなら自分が友達から弾き出される。
 でも最近、何だか変だ。
 友達と話すのも億劫だし、たった一人の家族である父にも適当な返事しかしていない。たぶん最近の風潮だと思いながらも、たっぷりと日本語を話したいと思う。
 誰でもいい。
 穏やかで、素直に聞ける言葉が欲しい。謙(へりくだ)るのではなく、丁寧な会話。憧れるのは皇室の話し言葉。
 でも、そんなこと言ったら馬鹿にされるだけ。
 ずっと小さな頃は煩く言われた言葉遣いも、いつの間にか、注意されなくなった。そうなると、加速するように悪くなっていった語尾。間違った使い方をしていないか、時々不安になることがある。
 でも今更、誰にも聞けなかった。

 彼に出逢ったのは、まさに、そんな思いを抱えた頃だった――。

 秋。
 あっという間に暗くなる、秋の日暮れ。
 もみじが色づいて、公園のベンチにカップルが陣取る季節。
 ピッタリとくっ付かないと二人は座れないベンチに、彼は居た。
 何かの文庫を開き、隣には缶コーラを置き、そして眠る。

 綺麗な紅葉の絨毯は、夕焼けと重なって彼に向かってライトアップしているようだった。
「あの…」
 声をかけてみるものの、起きる気配はない。
 ただ何となく離れがたくて、そのベンチの脇に座り込んだ。

 男の人にしては綺麗な人だと思う…、たぶん。
 銀縁の眼鏡は、最近じゃ珍しい。目を閉じていることで、睫毛がより長く見えているのかもしれない。
 何となく飽きなくて、その人の寝顔をずっと見ていた――。

「あれ、ごめん。占領してたね」
 突然、その人が気が付いて、立ち上がろうとすると手にしていた文庫本を落としてしまう。
 目の前に落ちてきたその本を拾い、土を払って差し出した。
「有難う」
 彼は本を受け取りながら、手荷物をまとめ始める。
(待って。もう少しだけ)
 でも、その言葉は声にならなかった。
 彼がベンチを立ち、どうぞと差す。
「あの…」
 その小さな呟きに、彼は首を傾けてくれた。それに勇気をもらった気がして、思い切って言ってみる。
「私に、ちゃんとした日本語を教えて下さい!」
 思いもよらなかったであろう言葉に、彼は自分を見て笑い飛ばしてくれた。
「俺が、ちゃんとした日本語を話せると思う根拠は?」
「それは…、貴方の声音が綺麗だったから。もっと話したいと思った…、だけです。ごめんなさい」
 頭を深く下げた後でバックを肩にかけ直し、歩き出した。恥かしくて、もう顔見ていられないから。すると背中に声が届いた。
「来週の火曜日、午後一時。ここにいる」
 振り返ると、彼が手を振っていた。

 今時、携帯の番号を聞くわけでもなく、メアドの交換もしない。
 ただ、来るか来ないか分からない相手を待つだけの約束。
 それでも良かった。
 彼に、そう言ってもらっただけで嬉しかった。
「私、藤嶋実の梨」
「渉、柿崎渉。雨が降ったら、来るなよ」
 その言葉が自分に対してだけだと思うと、得した気分になる。今度はちゃんとお辞儀をして、手を振ると彼も改めて右手を上げてくれた。
 きっと照る照る坊主をいっぱい作って火曜日を待つ。その時間が今から待ち遠しい。
 何でもないことで、こんなに楽しいと思える時間をくれた彼に心から感謝した。

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著作:紫草

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