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『鶯の初音』1

 例えば……
 泥酔して心にもないことを、口走ってしまう人がいる。
 一方、泥酔したからこそ、心の底にある本音を漏らしてしまう人もいる。

 人には、いろいろある。
 自分の目の前にいる人間が、そのどちらに当てはまる人間かを、見極める眼力こそが全てである――。

 春。
 大学一回生の慌しい一年が終わり、一息ついた春休みである。
 いつものように京華は、安売りスーパーのレジ打ちのバイトに出かけるところだった。
 二階建ての古びたアパートでは、余り意味のあるようには思えない鍵。それでも玄関の鍵穴に鍵をさし込んだ。
 すると、その時、右方向から声が聞こえてきた。
「これからバイト?」
 見ると、隣の部屋の前に一人の男性が立っている。
 誰だろう。同年代…くらいだろうか。
「こん…にちは。えっと……、はい」
 京華は瞬時、彼を観察する。
 身なり、足下、そして髪。
 とりあえず返事をしてもよさそうだと判断した。
「俺は初めてじゃないけど、その顔じゃ、もしかして分かってないね」
 そう言って、彼は鍵をさす。
「隣に住んでる。東山犀。室生犀星の“さい”って書く」
「あ。赤城京華です」
 彼は、入り口脇に備えてある全室用ポストを指した。そして、知ってると答えた。たぶん貼ってある小さな表札を見ていたのだろう。
「遅れるよ。行ってらっしゃい」
 京華は、その言葉に慌てて時計を見る。
 ほんとにヤバイ。
「行ってきます」
「じゃ、またね」
 彼は小さく微笑んで、部屋の中に姿を消した。
 またって……、全然気付かなかった。隣、空き室じゃなかったんだ。
「いつから住んでるんだろ…」
 その一言をきっかけに、京華は走り出した。

 その日の夜。
 バイトを終え従業員用の出入口から外に出ると、東山犀と名乗った男が向かいのコンビニに入ってゆくのが見えた。
 確かに気付いていなかっただけで、結構すれ違っているのかもしれないと思った。

「ねぇ。隣に人が住んでるの、知ってる?」
 帰宅して開口一番、聞いてみる。
「何!? ただいまも言えない程、気になったの」
 そう言われると、ちょっと気恥ずかしい気持ちになって、改めてただいまを言う。
 すると母は変な笑いを浮かべ、台所に立ったまま答える。
「知ってるわよ。去年の春に引越しのご挨拶に行ったから」
 え!
 あちらの方が古いの。
「今時、珍しいくらいいい人よ。お正月に乾麺のおそばを持ってきてくれたの。京華もいたんだけれど、聞くくらいだから憶えてないのね」
 あれ。そうなんだ。
 何してたのかなぁ……
「あ。お蕎麦食べた。あれ、そうだったんだ」
「色気より食い気なのね。そう。京華が大晦日でもないのにって言いながら、いっぱい食べた美味しいお蕎麦の彼よ」
 面目ない。本当に憶えてなかった。
「じゃ、ご飯にしましょう」
 母のこの言葉を合図に、暫し食事の時間となった。

 翌朝。
 洗濯物を干していると、隣の部屋のガラス戸が開いた。
 二階はベランダになっているが、一階の住人は南側に面した庭を、部屋のサイズに仕切った衝立があるだけの場所に物干し台を置く。
 でも男子学生が多いため、コインランドリー組は出てこない。
 だから犀と名乗った彼にも会ったことがないのだと思っていたが、違うのだろうか。
 犀が京華の姿を見つけると、おはようと声をかけてくる。
「おはようございます。昨日、母に聞きました。お蕎麦、美味しく戴きました。憶えていなくて、ごめんなさい」
 一気に話す京華を見て、犀が笑い出した。
「いや。ごめん。昨日の警戒心じゃ、二度と口をきいてくれないだろうと思っていたから。お蕎麦、喜んでくれて有難う。実家が信州なんだ。よかったら、まだ残ってるから手伝ってくれる?」
 それは、どういう意味だろう……
 京華が返事をしないでいると、犀が先に答えた。
「お昼、ご馳走するよ。今日は何処へも行かなくていいんだ」
 あ〜、そういうことか。
「でも母は仕事ですし、一人じゃ無理です」
「そっか。じゃ、大家さんと三人ならOK?」
 大家さんは、もう八十に手が届きそうな老婆だ。この古いアパートに一緒に住んでいる。
「それなら大丈夫です」
「じゃ、十二時に大家さんの部屋で」
 京華は了承の返事をし二人で洗濯物を干しながら、ひとしきり四方山話に花が咲く。それにしても洗濯物にも今まで気付かなかったということか。情けない。
 そういえば玄関前の電球が、先日省エネタイプの蛍光電球に変わった。それを付け替えたのが犀だと聞いて、京華は一番驚いた。
 そして、お昼少し前、京華は犀とは逆の隣の部屋である大家さんのお宅へ向かった――。

著作:紫草

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