春の弥生の昼下がり。
曲宴へ出かけられた大人たちとは違い、小さな姫様は留守居番である――
そんな言葉を近くに聞きながら橘の茂みに隠れ、唇に一指し指を置く少女。
「よろしいのですか。侍女達が捜していますよ」
少女は、口元を綻ばせ微笑むと、首を縦に合図する。
「では、私は共犯ですね」
「あら。わたくしを此処へ連れてきたのは、お兄様ですわ」
兄と呼ばれた東宮は手近な枝を一本手折ると、それを少女に差し出した。
「名も知らぬ男のもとへの入内は不安でしょう。だから逢いに忍んで来ました」
え…
何ともいえぬ表情には、嬉しいのか、哀しいのか。不思議な艶が宿っている。
いつも遊んで下さるお兄様が…
「お兄様が東宮様?」
どうやら、そうなってしまうらしい。幼い兄帝の崩御により、突然舞い込んだ話だった。
「ひとつだけ条件を出しました。貴女を入内させてくれるのなら、受けようと」
小さな頃からの遊び友だち、その方が東宮様。
姫の胸に強い決心と、背負うものの大きさと、そして后という重圧が圧し掛かる。
「私を助けて下さい。もう、ただの左大臣家の五の君ではなくなってしまうけれど、貴女と一緒に生きてゆきたい」
決められた方の許へ嫁すのは、女子(おなご)の倣い。
その方を選ぶことも、断わることも出来ない運命。
その方が、大好きなお兄様。
「わたくしも、小さな時からお婿様は五の君と決めておりました。お名が変わってもそれは変わりません」
慕い慕われ、想い焦がれて、そして共に戦う相手ができた。
右大臣家にも有力な候補はいる。
死ぬかもしれない。
それでもいいかい…
姫の瞳は少女から、女へと変わってゆく。
死して尚、共に冥土へ参りませう――
衣擦れの音がして、庭から人がやってきた。
「おやおや、ひいな遊びには少々過激なお話のようだ」
御簾の外から声が掛かる。
「本日は皆さまがお出ましになられ、お寂しいようでしたので雛遊びをしておりました。お二人を人形に見立てて興じておりました」
御簾をくぐると、今ではすっかり顔馴染みになった侍女が教えてくれる。
「それで今日は兄妹ですか。それとも父娘かな」
五の君が座ると、そこに寄り添い姫が云う。
「今日の姫は、五の君様の花嫁様になりました」
というのも、そろそろ二番目の姉に嫁す話が出ていたからだ。
そう云う少女を膝に抱き上げ、五の君が呟いた。
「どうやら、それは本当のことになりそうですよ」
「お父上に本日の曲水の宴にて、お声を掛けて戴きました。そこで、こちらの上巳の宴へ来るようにと。東宮でこそありませぬが、私はこちらの婿になるようです」
大好きな兄様の胸に抱かれ、姫は少しだけ驚き、そして微笑んだ。
「お姉様ではなくて、わたくしの花婿様になって下さるの」
「勿論。私が貴女を選んだのですから」
まだ、あどけない少女の顔に、はにかみとうれし涙が浮かんだ。
【了】