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『孤高』

 スタジオを、静寂が支配していた。
「今日は、止めましょう」
 カメラマンの声に、周りが一瞬凍りつく。

「待って!」
 俺は慌てて、スタジオを去ろうとする彼女に声をかけた。否、叫んだと言った方が正しいかもしれない。
「待って下さい。もう時間が取れない。今日撮って下さい」
 そう言った声は明らかに上ずっていた――。

 俺、竹原基樹。二十八歳。モデルで俳優で、大雑把にいうとタレントという扱い。
 お蔭様で、今年になって男性俳優やモデル総勢二十名での写真集を出す話が持ち上がった。折角打診されたことだし、とカメラマンの指名をして受けた。
 そのカメラマンが彼女、白木さをり。
 モデル時代。一緒に仕事をしていた俳優が数年前、彼女に撮ってもらって写真集を出した。評判がよかったから、自分も買って見た。
 その時、この人に撮ってもらいたいと痛切に感じた。
 カメラマンの名前を記憶して何処かで耳にする機会はないかと待ったものの、そんな機会は訪れない。数年が過ぎ、事務所の力を借りて漸く指名することができたのに。

「今日までに撮り終えないと、締め切りに間に合わない」
 それは確かにそうだった。
 でも、これはこちらの勝手な都合のようにも思えた。
「ならば、融通の利くカメラマンに撮り直してもらえばいい」
 出入り口に、背を向け立ったままだった彼女は、そう残してスタジオを去った。

(どうして…)
 唖然としたまま、誰もそこを動けなかった。

 いったい、どのくらい呆けていたのだろう。
 アシスタントの男性が近づいてきた。思わず緊張してしまう。
「申し訳ありませんが、今回の話は白紙に戻すことになると思います。契約のことは事務所の方に連絡しますが、とりあえず帰ってもらえますか」
 言葉が出なかった…。

 マネージャーに連れられて事務所に戻る。
 今日あったことを説明している声が聞こえた。社長が声を上げているのが分かる。
(扉、結構分厚いのにな)
 などと、およそ似つかわしくないことを考えている自分が滑稽に思えた。

 ほんの数時間前までいたのは、白木さをりのスタジオだった。
 廃業した写真館を買い取り、スタジオとして使っているのだと話していた。
 今日で三度目の撮影だった。早朝、約束の時間30分前にスタジオ入りし、衣装に着替え彼女を待った。
 ところが時間通りに入ってきた彼女は、基樹の顔を見るなり止めると言ったのだ。
(何が悪かったのだろう)
 そんな思いが渦を巻いている。
 射抜かれたような視線に言葉を失った、あの瞬間から。

 マネージャーが戻ってきて、再びスタジオへ向かうと告げられる。
(そんなことをしても大丈夫なんだろうか)
 一抹の不安がよぎる。
「契約は契約だ。多くの俳優の中で白木さをりが撮ったとなれば、お前の写真はトップかラストを必ず飾る。あわよくば表紙の一人に選ばれるかもしれない。絶対に撮らせるんだ」
 社長が奥の応接室から出てきて、そう言った。
 これで、もう逃げられないのだと悟った。

 再び、古い写真館の前に立つ。
 足が竦んでいた。
「行くよ、基樹」
「あゝ」
 重い足を動かすには、何よりも奮い立たせる勇気が必要だった。

 見慣れた廊下を歩く。
 マネージャーが奥にあるスタッフルームに行こうとしているのが分かった。一歩遅れた基樹を捜すように振り返るのを見ると、基樹が言う。
「俺、いない方がいい?」
「そうですね。じゃ、スタジオの方で待っていて下さい」
 彼はそう言って、早足に去った。
 その後ろ姿を見送りながら、交渉決裂になったら、どうなるんだろうとも考えた。
 やはり新しいカメラマンになるのだろうか。もう彼女には撮ってもらえないのだろうか。

 どうして彼女は撮影を止めてしまったのだろう。
「俺のせい…かも」
 気持ちの整理が必要かもしれない。彼女の朝の顔を思い出すと、そんな気がした。
 スタジオに続く扉を開け、中に入る。ふと人の気配を感じて、辺りを見回した。

  !

 白木さをりが立っていた――。
「何!?」
 心臓に突き刺さるような、冷たい言葉が投げられる。
 思わず胸の部分のシャツを掴んだ。
「もう一度、撮影をしてもらえないかと思って…」
 最后の言葉は震えてしまい、言い切ることはできなかった。
(マネージャー、誰と話してるんだよ。俺にこんなこと言わすなよ)
 八つ当たりをするように、マネージャーに気持ちを移した。そうでもしないと対峙していられない。
 でも、ここで逃げ出したら、今度こそ本当にチャンスを失くす。基樹は、漠然とした思いからとはいえ、その場から消えることを拒否した。

「今日の君は撮れない。たぶん少しでも自分の写真に拘りを持つカメラマンなら、同じ結論を出すと思う」
 思いがけず、優しい声音で彼女は言った。
「俺…!?」
「そう、君。竹原基樹。何をそんなに怯えているの。まるで迷子になった、迷い猫のように――」
 言いながら近づく彼女から、目を逸らすことができない。

 何を言われているのか…
 脳が理解した時、彼女は基樹の真ん前に立っていた。そして――
「どんなトラウマを抱えているのか知らないけれど、そんな中途半端な気持ちならモデルなど辞めてしまうことだ」
 言い終えた途端、彼女は基樹を抱き締めた。
 ぶっきら棒の言葉とは裏腹な、優しい抱擁だと基樹は感じていた。

「トラウマなんて、そんなの無いです」
 言い放った心算の言葉は、白木さをりの髪を揺らす程度の、呟きにしかならなかった。

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著作:紫草

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