「自覚なしっていうのは、一番厄介なんだよ。何か引っ掛かってるもの、あるでしょ。母親、友達、恋人、固有名詞の名前でもいい。気になる人を言ってみて」
彼女の言葉に、基樹は無意識に“白木さをり”という名を口にした。
彼女の腕が離れてゆく。
(俺、今、何つった!?)
「そうじゃないかと思った。私、何処かで会ってる?」
基樹は大袈裟なくらい、首を横に振る。
「じゃ、誰かに似てる!?」
それも覚えがない。白木さをりは誰にも似ていない。男から見てもカッコよくて、それでいて繊細な写真を撮る人だ。
黙っていると彼女に腕を引かれ、スタジオの隅に設置してあるテーブルセットに座らされた。
「君、病院通ってる人でしょ。それも精神的な方で」
彼女の言葉は容赦がなかった。
「どうして、それを…」
思わず肯定してしまったようなものだ。カマをかけられたのだと気付いた時には、遅かった。
やっぱりね、という彼女の言葉に嫌な汗が流れた。
正確には、行こうかと思っていたんだ。
沈黙の空間というのは、恐ろしく広く感じる。
それでも顔を上げる勇気はなかった。目の前に立つ彼女のスリムのジーンズを見ているしかなかった。
どのくらいの時間が経ったのかも分からなくなった頃、彼女が口を開いた。
「話してみる!?」
そんな言葉に、思わず彼女の顔を見上げた。
そこには、優しい顔の白木さをりが微笑んでいた――。
「基樹、何処にいる」
静寂を破ったのは、マネージャーの呼ぶ声だった。
「あ。ここ」
上ずった声しか出なかった。気付くと彼女の姿は消えている。
何処に消えた。
「一応、撮影は続行してもらうことになったから。出版の方に言って締め切りを何とかしてもらえないか、相談してくる」
言いながら、マネージャーは早くも扉の向こうに半分体が出ている。
「俺は?」
「事務所に戻るか。白木さんの機嫌が直るのをここで待つか、だな」
言い終わった時には、マネージャーの姿はなかった。
(最初から置いてくつもりだったろうが)
辺りを見渡す。
やはり彼女の姿はない。
混乱する頭を抱えていると、男が入ってきた。白木さをりのアシスタントだ。
「こちらだったんですね。撮影は再開します。ただ今日は帰られた方がいいでしょう。たぶん白木は戻ってきません」
「戻ってこないって」
「雲隠れしてしまいました。プロですからメールさえ入れておけば、締め切りを考慮して戻ってきますよ」
心配はいりません、とアシは言う。
本当に帰ってくるのか、と案じていると判断したんだろう。彼は、それだけ言うとスタジオを出ていった。
そうじゃない。自分が考えているのは、別なこと…
さっきまでの生々しい会話は、じゃあ何だ!?
抱き締められた腕も、取られた手首の感触も、そして耳に届いた言葉も全て、空想の産物なのか。
恐怖が体を這い上がってくる。
気付いてはいけない、何か特別なモノ。
『話してみる!?』
と言った彼女は何処だ。
「話、聞いてくれるって言ったじゃん…」
初めて言葉が彼女に向く、そこにいない人に。
「じゃあ、聞く。話して」
顔を上げると彼女が立っている、さっきと同じ位置に同じ姿勢で。
思わず、疑問が口をついた。
「貴女は実体ですか」
クスッ、と小さく声を出して笑う。
「実体って、随分な聞き方ね。私のこと、物の怪か何かだと思ってるの」
でも、さっきまでいなかったじゃないか、という言葉は飲み込んだ。
「安心して。私は実体。ちゃんと人間として生きてる」
そして壁のように見えた、パーテーションを指す。あそこに隠れていたらしい。
生きてる。
貴女は生きてる…
「俺、貴女を殺しました」
知ってる、とだけ彼女は言った。
「彼奴の写真が羨ましくて、俺も撮って欲しくて追いかけた。ストーカーだってのは分かってる。でも止められなかった。気付いたら、貴女死んでた」
涙が流れた。
彼女は跪いて、自分を見上げた。
「あれ、君だったんだ」
気付いてた!? どうして…
手紙や写真の類を送ったことはない。電話をしたこともない。待ち伏せたこともない。ネットの中で調べただけだ。今時カメラなんて、少し手を加えれば何処でだって信号をキャッチできた。
近くで撮影していると聞いた時だけ、如何にもな顔をして見学に行くだけの、おっかけ。
「どこで、気付いた」
「気配と匂い」
彼女はあっさりと肯定する。流石カメラマンというべきだろうか。
「ここでの最初の撮影の日、いつも身近にいた人だと気付いた。怯えているのも分かった。あれは私を襲ってしまうかもしれないという、恐怖だった」
そう、欲望に理性が負けると思った。
カメラマンとしての距離じゃない。自分の感情が暴走しそうだった。そして実際、暴走したんだ。
「違う!」
彼女の声が響いた。
「君は、自分の中の狂気に勝ったの。私を手離したの、憶えてないの?」
手離した!?
「被写体として君を見た時、危険を察知した。それでも撮影すると決めたのは、私。首に手がかかった時、逃げなかったのも私。ただ、君の心を壊してしまうとは思わなかった」
彼女は、ごめんと膝に頭を乗せてきた。
今朝、死んだと思っていた女が現れて驚いた。
事件にならないことも、不審に思ってはいた。
「生きてる…」
「そう、私は生きてる。多分仮死状態に近かったけれど、でも私は生きてる。だから、ちゃんと病院行こう。写真集は心が元気になったら、撮ってあげる。大勢の中の一人じゃなくて、基樹だけの写真集を作ろう」
彼女の瞳から、涙が一筋流れた。
「基樹。その感情はね、好きってことだよ。君は私に好意を持ってくれた。それだけだよ。好きになるという気持ちに嘘は駄目。言い訳も駄目。純粋に心から慕って。焦がれて。待ってるから」
出て行ったと思っていたマネージャーが立っていた。
歪んだ自分。まだ間に合うのだろうか。
彼女が抱き締めてくる。
「初めて君を見た時、君の中に孤高を感じた。だから追い詰めた、より高みに昇って欲しかった。白木さをりは竹原基樹を信じています」
驚いた。邪まな思いではなく、真っ向から好きになれと言ってくれる。
何て凄い人なんだろう。
「俺、病院行きます。警察にも。それで絶対、貴女のカメラの前に戻ってくる」
そう言った基樹の顔に、彼女はやはり優しく微笑みかけた――。凶悪にも繋がる、極上の顔を潜ませながら。
【了】