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『孤高』2

「自覚なしっていうのは、一番厄介なんだよ。何か引っ掛かってるもの、あるでしょ。母親、友達、恋人、固有名詞の名前でもいい。気になる人を言ってみて」
 彼女の言葉に、基樹は無意識に“白木さをり”という名を口にした。
 彼女の腕が離れてゆく。

(俺、今、何つった!?)

「そうじゃないかと思った。私、何処かで会ってる?」
 基樹は大袈裟なくらい、首を横に振る。
「じゃ、誰かに似てる!?」
 それも覚えがない。白木さをりは誰にも似ていない。男から見てもカッコよくて、それでいて繊細な写真を撮る人だ。

 黙っていると彼女に腕を引かれ、スタジオの隅に設置してあるテーブルセットに座らされた。
「君、病院通ってる人でしょ。それも精神的な方で」
 彼女の言葉は容赦がなかった。
「どうして、それを…」
 思わず肯定してしまったようなものだ。カマをかけられたのだと気付いた時には、遅かった。
 やっぱりね、という彼女の言葉に嫌な汗が流れた。
 正確には、行こうかと思っていたんだ。

 沈黙の空間というのは、恐ろしく広く感じる。
 それでも顔を上げる勇気はなかった。目の前に立つ彼女のスリムのジーンズを見ているしかなかった。
 どのくらいの時間が経ったのかも分からなくなった頃、彼女が口を開いた。
「話してみる!?」
 そんな言葉に、思わず彼女の顔を見上げた。
 そこには、優しい顔の白木さをりが微笑んでいた――。

「基樹、何処にいる」
 静寂を破ったのは、マネージャーの呼ぶ声だった。
「あ。ここ」
 上ずった声しか出なかった。気付くと彼女の姿は消えている。
 何処に消えた。
「一応、撮影は続行してもらうことになったから。出版の方に言って締め切りを何とかしてもらえないか、相談してくる」
 言いながら、マネージャーは早くも扉の向こうに半分体が出ている。
「俺は?」
「事務所に戻るか。白木さんの機嫌が直るのをここで待つか、だな」
 言い終わった時には、マネージャーの姿はなかった。
(最初から置いてくつもりだったろうが)

 辺りを見渡す。
 やはり彼女の姿はない。

 混乱する頭を抱えていると、男が入ってきた。白木さをりのアシスタントだ。
「こちらだったんですね。撮影は再開します。ただ今日は帰られた方がいいでしょう。たぶん白木は戻ってきません」
「戻ってこないって」
「雲隠れしてしまいました。プロですからメールさえ入れておけば、締め切りを考慮して戻ってきますよ」
 心配はいりません、とアシは言う。
 本当に帰ってくるのか、と案じていると判断したんだろう。彼は、それだけ言うとスタジオを出ていった。

 そうじゃない。自分が考えているのは、別なこと…
 さっきまでの生々しい会話は、じゃあ何だ!?
 抱き締められた腕も、取られた手首の感触も、そして耳に届いた言葉も全て、空想の産物なのか。

 恐怖が体を這い上がってくる。
 気付いてはいけない、何か特別なモノ。

『話してみる!?』
 と言った彼女は何処だ。
「話、聞いてくれるって言ったじゃん…」
 初めて言葉が彼女に向く、そこにいない人に。

「じゃあ、聞く。話して」
 顔を上げると彼女が立っている、さっきと同じ位置に同じ姿勢で。
 思わず、疑問が口をついた。
「貴女は実体ですか」
 クスッ、と小さく声を出して笑う。
「実体って、随分な聞き方ね。私のこと、物の怪か何かだと思ってるの」
 でも、さっきまでいなかったじゃないか、という言葉は飲み込んだ。
「安心して。私は実体。ちゃんと人間として生きてる」
 そして壁のように見えた、パーテーションを指す。あそこに隠れていたらしい。

 生きてる。
 貴女は生きてる…

「俺、貴女を殺しました」
 知ってる、とだけ彼女は言った。
「彼奴の写真が羨ましくて、俺も撮って欲しくて追いかけた。ストーカーだってのは分かってる。でも止められなかった。気付いたら、貴女死んでた」
 涙が流れた。

 彼女は跪いて、自分を見上げた。
「あれ、君だったんだ」
 気付いてた!? どうして…
 手紙や写真の類を送ったことはない。電話をしたこともない。待ち伏せたこともない。ネットの中で調べただけだ。今時カメラなんて、少し手を加えれば何処でだって信号をキャッチできた。
 近くで撮影していると聞いた時だけ、如何にもな顔をして見学に行くだけの、おっかけ。

「どこで、気付いた」
「気配と匂い」
 彼女はあっさりと肯定する。流石カメラマンというべきだろうか。

「ここでの最初の撮影の日、いつも身近にいた人だと気付いた。怯えているのも分かった。あれは私を襲ってしまうかもしれないという、恐怖だった」
 そう、欲望に理性が負けると思った。
 カメラマンとしての距離じゃない。自分の感情が暴走しそうだった。そして実際、暴走したんだ。

「違う!」
 彼女の声が響いた。
「君は、自分の中の狂気に勝ったの。私を手離したの、憶えてないの?」
 手離した!?
「被写体として君を見た時、危険を察知した。それでも撮影すると決めたのは、私。首に手がかかった時、逃げなかったのも私。ただ、君の心を壊してしまうとは思わなかった」
 彼女は、ごめんと膝に頭を乗せてきた。

 今朝、死んだと思っていた女が現れて驚いた。
 事件にならないことも、不審に思ってはいた。
「生きてる…」
「そう、私は生きてる。多分仮死状態に近かったけれど、でも私は生きてる。だから、ちゃんと病院行こう。写真集は心が元気になったら、撮ってあげる。大勢の中の一人じゃなくて、基樹だけの写真集を作ろう」

 彼女の瞳から、涙が一筋流れた。
「基樹。その感情はね、好きってことだよ。君は私に好意を持ってくれた。それだけだよ。好きになるという気持ちに嘘は駄目。言い訳も駄目。純粋に心から慕って。焦がれて。待ってるから」

 出て行ったと思っていたマネージャーが立っていた。
 歪んだ自分。まだ間に合うのだろうか。

 彼女が抱き締めてくる。
「初めて君を見た時、君の中に孤高を感じた。だから追い詰めた、より高みに昇って欲しかった。白木さをりは竹原基樹を信じています」
 驚いた。邪まな思いではなく、真っ向から好きになれと言ってくれる。
 何て凄い人なんだろう。

「俺、病院行きます。警察にも。それで絶対、貴女のカメラの前に戻ってくる」
 そう言った基樹の顔に、彼女はやはり優しく微笑みかけた――。凶悪にも繋がる、極上の顔を潜ませながら。
【了】

著作:紫草

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