「なぁ、あんまり歴史を話すなよ」
最初に、そう仁に云われていた。
だから仁にすら、滅多に歴史の話はしない。誰が聞いているか、分からないから。
それなのに文長は、これから起こるだろうことをよく知っていた。
私は、適当に誤魔化しながら、今の時間を知る。
信長は、安土で楽市楽座を始めたらしい。
安土の天守閣が完成するまでは、まだ数年ある頃だろうか。
史実って、何だろう。
今が今でなくなって、私にとっての今は、昔にある。
仁は、医師だ。
この時代の医術は、現代とは違う。それでも仁は医師を続けている。
きっと最初は大変だったろうし、仁という人間を知ってもらうまでは、見立ても信用されなかったろう。
でも仁は医師を続けた。それを支えたのが文長だと彼は話した。
「花穂は、学問に詳しいな」
確か、文長が最初に掛けてくれた言葉だった。
ちょっとだけ怖そうな感じと、優しい笑顔が同居する人。仁が働くのは文長の家の一角にある、医療所だ。文長が社長で、仁が社員という間柄。
あの日、二人は薬草を取りに山へ入ったのだと文長が云う。
そう、私の命は薬草を捜す二人に、拾ってもらったことになる。
あの瞬間から、私の人生は過去にある。
自分が習った歴史のなかに、私がいる。
映画やドラマでは、過去に関わってはいけないと繰り返し云われていた。
でも、少なくとも私は過去に関わらなければ、生きていくことはできなかった。
もし過去に関わることで、未来が変わることがあったなら・・。
ただ、それを知ることは私には出来ない。
気にするな、と仁は云う。
大きな見えざる力が、私たちを過去へ呼んだのだと。
きっと、私たちだけじゃない。
過去から未来へ行く者も、別の場所に落ちた者も、もっと大勢いる筈だから、生きてもいいと仁は云う。
文長も同じだった。
どんな時代でも、生きることに意義があると。花穂が気にすることはないと云ってくれた。
歴史を多く知る文長。
彼は、どうして、いつも穏やかにいられるのだろう。
そして何もかも見透かしたような瞳は、真実を映し出しているみたい。文長になら、何もかも話せるかもしれない。そう思った。私の全てを、いつか話せるかもしれない、と。
やがて告げた、私にとっての大きな悩みは、小さい悩みと片付けられた・・。
文長は変わってる。
信長のすることを、気にかける文長。
親戚なのだろうか。それなら一緒にいないのは、変だよね。
見てみたいなぁ、信長。ちょっとだけでいいから、なんて思ったら、仁に叱られるかな。
「花穂さん、これ持って行って」
その日、文長の住居にあたる部屋にいた私は、突然声を掛けられた。
見ると、綺麗な女の人が立っている。手には、ちょっと大き目の風呂敷包み。
「あの・・」
「私は帰蝶。でも、このことは秘密にして下さいね」
女は、そう残して去った。渡された荷物の重みと、聞かされたことの意味が理解できないまま、私は微動だにもできなかった。
キチョウって、誰だっけ・・。
「何してんの?」
たぶん、三十分は経っていたと思う。足は痺れ、立ち上がることもできない。それでも動かずにいたのは、持たされた荷物が何かを知りえなかったから。
動いたら壊れた、なんて云われたら困るもの。
そんな思いが脳裏をよぎる。
なのに仁ったら、あっさりと荷物を受け取ると畳の上に放り出した。
私の努力って、何だったのかしら。
広げられた物を見ると、薬草を乾燥させたものや容器に入った丸薬、塗り薬の類、そして数本の刃物と、鍬と鉈。これが重かった原因だ。
「大変だったろう。ありがとな」
そんな仁の言葉に救われながらも、私は当分歩けない。
「これ、誰が?」
「キチョウという人が」
そういった時の仁は、ひどく驚いたように見えた。どうしたのかと、聞いてみても何でもないとはぐらかされる。
「帰ろうか」
風呂敷包みを改めて包み直すと、仁が立ち上がる。
「ちょっと待ってろ」
暫くすると、私の足もよろよろ程度には動くようになる。
とりあえず表に出ようと廊下を歩いていると、仁の声が聞こえてきた。
「あんたが此処にいたら不味いだろ。早く安土へ帰れ」
それだけが、やけにはっきり耳に届いた。
私は話をするふたりの前まで、辿り着いてしまった。
そこにいたのは仁と、あのキチョウだった。
「キチョウって、もしかして濃姫?」
「あら、ほんと。あなた文長様のおっしゃった通り、詳しいのね」
彼女は仁のことなどお構いなしで、けらけらと笑い出した。
冗談じゃない。
確かに信長に会ってみたいと思ったけど、まさか濃姫に会うなんて考えてもみなかった。
濃姫って、もっと強い感じのある男っぽい人だと思ってた。
でも目の前にいる彼女は、とても色気のある女性に見える。ただ、あの風呂敷包みを軽々と運んできたのだから、力持ちということだけは強いに通じるかな。
史実って、当てにならないもんだな。