月にひとつの物語
『葉月』(李緒版)

 江戸の頃、使用人を多く抱えたお店の跡取り息子となると、自由に恋などはできなかった。
 新太郎は、そんな中程度のお店の跡取り息子である。通常なら太郎とでもつく名前に新がついているのは、新太郎が生まれる以前、長男がまだ幼いうちに病気で亡くなっているからだ。
 そんな新太郎の情人は、裏店に住む職人の娘、お糸。新太郎よりも3歳年上の26歳で、とうに適齢期は過ぎている。両親は既になく、習い覚えた三味線の師匠をして生計を立てていた。
 幼馴染みとして育った2人は身分が違うから、その間柄をおおっぴらにできるものではない。たとえ、町内で周知の事実であったとしても。

*    *    *    *    *

 ちりん、ちりん。
「ん…」
 その声に、風鈴をかけ終えたお糸が振り返る。
「起こしちゃった?」
 大きく伸びをする新太郎を見て、彼女は艶やかに微笑んだ。
「見てよ。夕焼けが綺麗」
 お糸は、廊下の柱に身体を預けて、西の空をみつめた。
 どれ、と呟きながら新太郎も立ち上がり、赤く染まった空をみつめる。
「綺麗だなぁ」
 お糸の腰に手を回して、新太郎が抱き寄せる。彼女からは、ふんわりとおしろいの匂いがした。新太郎が昼寝をしている間に行水を浴びたのだろう。微かにまだ濡れている髪の先が、新太郎の腕をくすぐった。
「暑いわ」
「いいさ、別に」
「あんたはよくても、あたしが暑いの」
 そう言って、お糸が腕の中からするりと逃げていく。
 そのくせ、背の高い新太郎の胸にもたれて、夕日をみつめている。
「…そろそろ刻限じゃない?」
 時間と共に色の変わる空を眺めながら、ぽつり、とお糸が呟いた。
 今夜は、何の集まりだっけ、と新太郎はまだ眠気の残る頭で考えた。
「あぁ、じっさま達の句会か…」
 商売も手伝わず、ふらふらと遊んでいるように見える新太郎は、商売仲間との付き合いだけはかかさなかった。特にご隠居たちからの受けが良く、しょっちゅう呼び出されていた。
 新太郎には異母弟が1人いる。
 継母は、2人を分け隔てなく育ててくれて、弟とも仲が良かった。
 新太郎は、弟の幼い頃から、商人としての優れた才能を見出していた。同時に、自分が商売人に向かないことにも気付いていた。
 だから、周囲を説き伏せて、弟を跡継ぎにしようと思っている。
 来年、弟は15歳になる。今は、ご隠居たちとの付き合いの中で、色々と根回しをしている最中だ。
「珍しいねぇ。ご隠居さんたちが、夜の句会だなんて」
「蛍見物なんだとさ」
「ふぅん」
 新太郎がお糸を覗き込むと、涼やかな目を持つ顔が夕日に赤く染まっていた。その横顔には、何の憂いも伺えない。
 新太郎は、結婚も子どもを持つことも、自分に許してはいなかった。弟を跡継ぎにしたとき、無用な相続争いを避けるためだ。
 お糸は何も言わない。責められたことも一度もない。
 新太郎は、お糸を抱きしめると、心の中で、済まないと詫びた。


 行って来る、それだけを言って、新太郎は出ていった。
 お糸は、彼の後ろ姿を見送りながら、小さくため息をついた。
 ふらりと立ち寄って、ふらりと帰っていく。そんな関係がもう、8年も続いていた。
 いつも帰り際に、ほんの一瞬、新太郎の瞳に影が宿る。
 彼は、まだ気にしているのだ。あの時のことを。
 16歳の時、お糸はある男と駆け落ちをした。
 近くに住む職人の見習いで、会ってすぐに恋に落ちた。男は職人にしておくには勿体ないくらいの色男だったけれど、博打にはまり借金をかかえていた。それで、両親に反対されたのだ。
 結局、男の在所で隠れていたところをみつかり、無理矢理に連れ戻された。
 今にして思えば、若気の至りだった。もう男の事など、なんとも思っていない。
 それでも新太郎は、今も2人のことは純愛を引き裂かれたのだと思っている。
 大人になって、どういうことだったのかもう理解できているだろうに、新太郎は帰り際になると、お糸がまたどこかへ行ってしまうのではないかと、あの日のように、さよならの言葉が本当になるのではないかと、そう思ってしまうのだろう。さよならとは、決して言わないで帰っていく。
 初めて体をまかせた時は、「本当にいいの?」と聞かれた。
 そんなこと聞かないで欲しい、と思ったけれど、黙って頷いた。小さな頃から、自分のことをずっと好きでいてくれた新太郎。お糸は、彼に愛されることで、包み込まれるような安らぎを感じるようになった。
 今では、誰よりも愛しいと思える存在だ。
「おや、新さん、お帰りかい?」
 向かいの家から、おかみさんが脇にざるを抱えて出てきた。
「そう。句会だって」
「新さんもねぇ、もう少し家業に精を出せばいいのに」
 お糸は、あいまいな笑みを浮かべた。それ以上深くは突っ込まず、おかみさんは井戸端へと行ってしまう。
 町内では、道楽息子の新さんで通っているのだ。新太郎の本意を知る者は、ごくわずかである。
 連れ添うことはできないと告げられたとき、お糸は思いの外自分が傷付いていないことに気が付いた。多分それは、そう告げた新太郎の方がずっと傷付いていることがわかったからだ。
 だから、お糸は何も言わない。
 一緒にいられるだけで、いい。
 これからもずっと。


 がらがら、と表の扉が開いた。
「お糸」
 新太郎だった。
「どうしたの?」
「忘れもの」
 そう言うと、新太郎が手を伸ばしてお糸の頬を包み込む。
 抱き寄せられるように顔を近づいてきて、唇が落ちてくる。
 優しい宥めるような口づけ。
 名残惜しそうに離れると、新太郎が、じゃ、と言って出ていく。
 後ろ姿を見つめながら、顔を赤らめたお糸は、「莫迦ね」と独りごちる。
 その言葉が聞こえた筈もないけれど、新太郎が振り返って、手を挙げた。
 そんな彼に手を振り返る彼女の耳に、涼やかな風鈴の音が届いていた。
【完】

著作:李緒

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