月にひとつの物語
『神無月』(李緒版)

 頃は平安、ひとりの少女がおりました——。

 賑やかな声が、長い廊下の向こうから響いてきます。
 待ちきれなくなった私は、侍女の言葉が終わる前に、部屋を飛び出しました。
 色とりどりな十二単の侍女たちに囲まれて、一層華やかな叔母は、私の姿をみつけると優しく微笑んでくれました。母の年離れた妹である叔母は、祖父ご自慢の美しさで、今は左大臣の北のお方に仕えているのです。
 切袴の裾をひるがえして、私は叔母の腕の中に飛び込みました。
「あらあら、もうすぐ裳着を迎えるというのに」
 そう言いながら、叔母は私に頬ずりをしてくれました。幼かった頃、病弱だった母の替わりに私を育ててくれたのが叔母でした。私にとっては、母であり姉のようでもある、大好きな方なのです。
「叔母さま、新しい物語を持ってきてくださった?」
「えぇ、貴女の大好きな光の君のお話の続きをね」
「素敵」
 私は、叔母の首にかじりつきました。侍女たちはクスクス笑うし、乳母のたしなめる視線も感じていたけれど、そんなことは気にならないくらい私は舞い上がっていて、辺りを駆け回りたいくらいの気分でした。
「今回は、若紫のお話よ。貴女くらいの年頃の姫君のお話」
「光の君に愛される方のお話ね。早く読ませて」
 いつも聞いていた若紫のお話が読めるとあって、私は早く早くと急き立てました。
「貴女にも、いつか現れるわ。光の君のような方が」
 そんな叔母の言葉も耳には届かず、私は早速、自室へ戻り、物語を手に取ったのでした。


 光の君に見出され、引き取られた若紫。
 これから若紫はどうなっていくのかしら。きっと、光の君に愛されて、幸せに暮らすんだわ。
 私はそんなことを思いながら、すっかり高く上ってしまった月を眺めておりました。
「まぁ、まだ起きていたの? あれからずっと、読んでいたのかしら」
 その声で我に返った私は、隣に立つ人を見上げました。
 竜胆の重ねに身を包んだ叔母は、月の光を浴びて、かぐや姫のような美しさでした。私は言葉もなく、叔母の姿に見入っていました。
「姫?」
「叔母さま、どこへも行かないで」
 叔母は何も言わずに私を抱き寄せて、頭を撫でてくれました。衣装に焚きしめた香りを胸一杯に吸い込んで、私は昼間には気付かなかった変化に気付きました。
 いつもとはどこか違う華やかな香り。
 それが何なのか、その時の私はまだわからなかったのです。


 その夜、久方ぶりに私は叔母と同じ床につきました。
 左大臣のお屋敷での話しは、私には想像もつかない豪華なもので、可愛らしい小さな姫君は、私にとっては物語の中の登場人物と同じでした。
 いつの間にか眠ってしまったようで、気付けば灯火は細くなっていました。
 叔母の姿を探すと、そっと文箱から小さな結び文を取り出すところでした。仄かな灯りに照らされた横顔は、見たことのないような艶やかな笑顔で、私は身じろぎできなくなりました。
 かさり、と小さな音をたてて、しなやかな白い指が文を開きました。
 その文を愛おしそうに眺めて微笑むと、筆の跡を指でなぞり、文をそうっと撫でたのです。
 紅を塗った口元が小さく動いて何か呟き、両の手で文を胸に抱きしめ、ゆっくりと瞼を閉じました。
 それは、私の知らない叔母の姿でした。
 私の胸は早鐘を打ち、顔がほてって自分でも真っ赤になっているのがわかりました。
 そこへふわりと薫ってきたのは、いつもの叔母とは違う香り。私は、それがこの文から薫るものなのだと気付きました。
 そして、それは殿方から送られた恋文であろうことにも。
 物語に出てくるゆかしき恋文。
 想像して憧れていたものと、現実はまるで違うものでした。
 私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、目をぎゅっと閉じると、ひたすら時が過ぎるのを待ったのでした。


 眠れぬ床の中であれこれ考えたのは、物語の中の恋のお話は、現実にもあるのだということ。
 翌朝、物語の主人公だった叔母は、幸せそうに微笑んでいました。最近とみに美しくなったという母の言葉は、恋ゆえだと、私はようやく知ったのでした。
 その日の午後、私は両親に呼ばれて、こう告げられました。
「左大臣の姫君のところへ、侍女として上がるように」
 華やかな左大臣のお屋敷。不安にかられて、叔母をみつめると、大丈夫というように微笑んでくれました。
 私も大人になったら、あのような文が来るようになるのでしょうか。物語の主人公のように恋をするようになるのでしょうか。
 それは、怖ろしいことのようにも、待ち遠しいことのようにも思える、十二歳の秋の出来事なのでした。
【完】

著作:李緒
月にひとつの物語-contents 「神無月」(紫草版)
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