月にひとつの物語
『睦月』(李緒版)

 頃は、飛鳥。古事記に出てくるような神々が、人々に信じられていたそんな時代。
 これは、15歳になったばかりの少女、元奈児の恋のお話です。


 元奈児は、緊張した面もちでおばばの前へと座った。
 小さかった頃は、誰よりも長生きしている皺だらけのおばばが恐かった。今でもまだ、ほんの少し恐い。
「珍しい鳥を見たそうじゃな」
 おばばが笑顔で尋ねたので、元奈児はほっとしたように口を開いた。
 宇智彦と一緒に見た、美しい鳥。2人は寄り添って、大空を優雅に飛ぶその鳥を見上げていた。集落の皆に自慢げに話したのと同じことを、彼女はおばばの前で繰り返す。
「長い尾が、真っ青な空にたなびいていたの。鮮やかな色をした身体。細くて長い首。賢そうな大きな目。見たこともない綺麗な鳥が、ゆったりと空を舞うさまは、神々しくてまばゆかったわ」
 この言葉が後に、どんな運命をもたらすのか。彼女には知るよしもない。
 夢心地に話す元奈児に、それは鳳凰という目出度い鳥なのだと、おばばは教えた。
(鳳凰。そんな珍しい鳥が、私たちを祝福してくれたんだわ)
 見目も良く、体格のいい宇智彦は、女たちから人気がある。他の集落からも女たちが彼を求めてやって来る程だ。そんな宇智彦から好きだと言われても、元奈児はいつも不安だった。
『長(おさ)とおばばに言って、ちゃんと名問いの儀式をしよう』
 幸せにするよ。宇智彦は、鳳凰を見上げながらそう言ってくれた。
 元奈児にとって、鳳凰は幸せを運んでくれた鳥だった。


 長に命ぜられて、元奈児は、大王(おおきみ)の前で鳳凰の話をすることになった。
 鳳凰とは、良い統治をした王の代に現れる霊獣の一つ。見たという話だけでも、大王の治世を称えるには充分だったのだ。
 大王の宮殿へ連れて行かれて、御前で平伏していたときは元奈児も神妙に畏まっていたが、許されて仰ぎ見た大王は、威厳はあっても普通のおじさんに見えた。拍子抜けすると同時に、畏怖は消えた。
 元奈児は、なおも許されて近くまで進み出ると、顔をあげて臆することなく話をした。彼女は、自分の話が大王の御代を言祝ぐものだとは知らなかった。鳳凰は自分たちを祝福してくれるものだと信じて、誇らしげにその様を語ったのである。
 話し終えたら、宇智彦の待つ集落へ帰れるものと思っていた元奈児は、褒美が貰えるからと長に言われて、その夜は宮殿に泊まることとなった。宇智彦へのおみやげができる、そう単純に彼女は考えた。
 宮殿の中の、初めて見る豪華な調度品。与えられた衣装が、柔らかくて肌触りも良く、染めがとても美しかったこと。何品も出てくる贅沢な食事。見るもの聞くもの全てが珍しく、またたく間に数日が過ぎていった。
 気付けば、長の姿はなかった。
 独り残された元奈児は怖くなって、ご褒美はいいから家へ帰りたい、と申し出た。
 だが、冷たい声で女官は言った。宮殿から出ることはできない、と。
 どうして、と尋ねた彼女に、誰も答えをくれなかった。
 長に命じられたから、鳳凰の話をしただけだった。それが集落のためになる、そう言われたからここまで来たのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
 こんなところへ来なければ良かった、鳳凰のことを集落の皆に話さなければ、ここへ来ることもなかったのに、と彼女は後悔しながら泣きじゃくった。
(宇智彦に会いたい…)
 集落を出る前の夜、好きだと何度も呟いて抱きしめてくれた。
『どうしてこんなに愛しいんだろう。小さな頃からずっと一緒にいたのに、元奈児だけだ。こんな風に思うのは』
 ほんの数日でも離れることが淋しくて、いつまでも手を離さなかった元奈児を、骨も折れんばかりに抱きしめてくれた宇智彦。留守の間に名問いの儀式の許しを貰っておくよ、そう耳元で囁いてくれた声がよみがえる。
 帰りたい。
 そう思うと矢も楯もたまらず、元奈児は部屋を抜け出した。
 だが、回廊へ出た途端、彼女の目の前で、2本の槍が交差した。逃げるならこの槍で刺す、兵の目がそう語っていた。
 その時から、部屋の前には厳重な見張りの兵が立つようになった。閉じこめられてしまった元奈児にできるのは、ただ泣き続けることだけだった。
 宮殿へ来てから1週間が経った。
 夕日が輝く頃、突然数人の女官が部屋に踏み込んできて、念入りに湯浴みをさせられ、綺麗な衣装を身につけさせられた。全身を飾り立てられ、不安にかられた彼女が何かあるのかと尋ねても、誰も口をきいてはくれなかった。
 ただ、後片付けを終えた同じ年頃の女官が、灯をともしながら小声で教えてくれた。
「今宵、大王がお渡りになられます」

 私が、大王の情けを受ける?
 どうして?
 私には、大好きな宇智彦がいるのに。
 鳳凰が2人を祝福してくれたのに。
 それなのに、どうして。

 呆然と座り込んでいると、ゆっくりと扉の開く音が、部屋に響いた。
 彼女は飛び上がると、部屋の隅へ逃げた。しゃがみ込んで、自分の身を守るようにちぢこまる。
「元奈児」
 ところが、自分の名を呼んだ声に、彼女は耳を疑った。酒焼けしたようなしゃがれた大王の声ではない。大好きな宇智彦の声。遠く集落で待っている筈の彼の声だった。
 彼女はおそるおそる顔を上げた。灯火に照らされているのは、確かに愛しい彼の姿。
「宇智彦」
 彼女は、彼の胸に飛び込んだ。強く抱きしめてくれる頼もしい腕。懐かしい体臭。夢ではない。本当に彼が迎えにきてくれたのだ。
 宇智彦が、両手で元名児の頬を包み込み、貪るようにして口づける。息も止まれというほどの口づけを交わした後も、愛しい女の頬に、額に、首筋に、唇を落とす。
 元名児が意識を手放そうとしたところで、宇智彦は、名残惜しそうに離れた。
「一緒に逃げよう」
 元奈児は無言で頷き、彼の手を取った。
 部屋の外では、槍を持っていた兵が気を失って倒れていた。見目良い男でありながら、宇智彦は集落でも1、2を争う腕自慢なのだ。
 2人は宮殿を出ると、集落とは違う方角へ向かって走り出した。この先には、湖があると長が言っていた。
 どこでもよかった。2人で暮らせる場所ならば──。


 天の理(ことわり)。人の理。
 滅多に目にすることのない鳳凰を吉兆としたのは、人の勝手。
 どんな結末であろうと、鳳凰にも天にも咎はない。
 湖畔までたどり着いた2人の男女に、じりじりと詰め寄る追っ手の兵。
 兵たちの手から、弧を描いて放たれた矢は、2人を無惨に貫いた。次々と放たれた矢が、体中のいたるところに突き刺さる。血まみれになって、2人は息絶えた。
 そのうちの1本は、2人を同時に貫いていた。
 1本の矢に貫かれて抱き合う2人の顔は、静かに微笑んでいたという。
【完】

著作:李緒

月にひとつの物語-contens 「睦月」(紫草版)
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