月にひとつの物語
『長月』(李緒版)

 頃は昭和初期。軍靴の音はまだ小さく、穏やかな日常の続く東京。大学生の柾親と、6歳年下の夏子は、まだ夫婦になったばかり。当時は珍しい恋愛結婚をした2人です。


 柾親は鉛筆を持つ手を止めて、縁側に座る夏子を見つめた。
 庭からは合唱する虫の音。
 どこの家だろうか、しまい忘れた風鈴の音が聞こえてくる。
 縁側には、ススキの穂とお月見団子。
 結婚して初めての十五夜だ。夏子が作ってくれた里芋の煮物は、ことのほか美味しかった。
 ついさっきまで、幼馴染みの達也と悠茄の4人で、お月見と称し、酒を酌み交わしていた。その楽しかった余韻に浸っているのだろう、夏子は笑顔で月を見上げている。
 そんな彼女の姿を見つめながら、以前のように家まで送ってさよならを言わなくてもいいのだと、2人でこの家に帰ってこられるのだと、柾親は満ち足りた思いをかみしめていた。


 今から2年前のまだ一高生だった時、友人宅からの帰り道に彼女を見かけて、柾親は一目で恋に落ちた。自分が探していたのは、彼女だったのだと、何故だかそう強く感じた。
 それからは、彼女の素性を調べ、名前を知り、なんとかして出会いを作ろうと画策し、無事に知り合うことができた。一番の障壁である筈の、彼女の保護者である伯父とは、話をするうち気に入ってもらい、交際と結婚の許可を得ることができた。
 彼女に毎日会いたい。
 そう思っても、夏子は女学校が終わると、伯母の手伝いをする身で、遊び歩くことは許されない。当時の良家の子女はそういうしつけを受けていたのだ。
 だから柾親は、夏子が女学校から帰るのを、門の前で待った。家までの20分。その短い時間がデートの時間だった。
 当然、柾親は、通っている一高の授業をさぼることになる。教師には怒られるが、成績だけは学年3番以内をキープして、どうにかやり過ごした。
 この春、夏子が女学校を卒業してからは、それもかなわなくなり、会う機会がぐんと減ってしまった。だから、結婚出来る日が、一緒に暮らせる日が、どれほど待ち遠しかったことか。
 柾親は立ち上がると、夏子の隣に腰を下ろした。
「また、月を見てる」
 そう声を掛けると、夏子は振り向き、幸せそうな笑顔を柾親に向けた。18歳といっても、童顔だから随分と幼く見える。友人たちからは、少女愛好者とからかわれるが、柾親は気にしなかった。
「だって、とても綺麗なんだもの」
 2人は並んで、白く輝く満月を見上げた。
「本当に兎がいるのかしら」
「そう考えた方が楽しいよ」
「じゃあ、かぐや姫も?」
 柾親は頷くと、夏子の頭をくしゃくしゃと撫でる。彼女は肩をすくめながら、くすぐったそうに笑った。
「私ね。寂しくなると、いつも月を見ていたの。なんだか心が落ち着くような気がして」
 彼女は、父親を幼いときに、母親を女学校時代に亡くしている。伯父と伯母はよくしてくれたそうだが、やはり寂しさはぬぐえなかったのだろう。
「でも、今日は別。とても楽しかった」
 悠茄の離れの部屋で集まるのはいつものことだが、結婚してからは時間を気にしなくても良いので、ついつい遅くまで居てしまう。達也は泊まっていってもいいぞと言うが、2人きりになりたいから、遅くなってもこの家に帰ってくる。そんな柾親に、どっちなんだと、達也は笑う。
 女には厳しい達也が、夏子のことは最初から気に入っていた。兄と妹のように仲が良く、柾親には話せないことも夏子は相談しているようだ。悠茄も妹のように可愛がっていて、夏子にとっても悠茄は憧れの存在だった。いつも2人で内緒話をしては、ころころと笑っている。時々、夫は俺だぞ、と主張したくなる柾親だったが、大事な友人である達也と悠茄が、夏子と仲良くしている姿を見ているのは、とても嬉しいことだった。


「…昼間、買い物に行った時ね、千人針を刺してきたの。角の酒屋さんのご主人、出征するのですって」
 この年の7月7日、廬溝橋事件により中国との戦争が始まっていた。
 不安げな顔で、夏子が柾親を見つめる。
「大学生は徴兵が免除されているから、俺にはこないよ」
 ほんの少し安心したように、夏子が頷く。それでもまだ不安なのだろう。柾親のシャツの裾をぎゅと握りしめて、こう言った。
「月は満ち欠けするから良くないって。不吉だって、言ってる人がいたの」
「そんなことはないさ。月は欠けても、また満ちる。俺たちもこの先、色々なことがあるかもしれないけれど、また月が満ちるように必ず戻るから」
 そう言って、肩を抱き寄せた。
 すると、夏子は困ったように見つめ返してくる。
「あの、柾親さん、人の目が…」
 垣根の間から、道を通る人が見えるのだ。夜も更けてほとんど人が通らないといっても、貞淑な妻となるよう学校で教わってきた夏子は躊躇してしまう。
 いつでもどこでも触れあっていたいのに、それができないのが、目下の柾親の不満である。
「冷えてきたから、もう閉めよう」
 もう少しこうしていたかったが、仕方がない。明日までの課題がまだ途中なのだ。
 夏子の入れてくれた熱いお茶をすすりながら、柾親はまた勉強を始めた。
 夏子は、悠茄に借りた本を読んでいるようだ。
 互いの呼吸を感じながら、一つ部屋で、それぞれの時間を楽しむ。充足した時間だった。
 穏やかに時は流れる。この月空の下、このまま、永遠にこの時は続くと思っていた。
 日本中の皆が…。
【完】

著作:李緒

月にひとつの物語-contents 長月(紫草版)
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